2013/05/14

蒋介石が愛した日本(書籍)

蒋介石は中華民国の総統であり、後に台湾を拠点にして最後まで中国大陸に戻りたい一心であったことは、自分が孫文の一番の教え子であり、孫文の意思を継いだ唯一の後継者であると自負しているからだと思っていた。清朝を倒したあと中華民国として各地に居た軍閥を自分の支配下にして、中国を統一的に、そして民主主義国家にするために夢を見ていたことは知っていたが、本書「蒋介石が愛した日本」を読む前は、蒋介石が日本を好きだった、愛していたなんていうのはなんで!??と思いが強かった。中国大好き人間であり、かつて第二次世界大戦のときには敵国として中国軍のトップとして君臨していた人がなんで日本を愛していたのか?というのは疑問だったからだ。

しかし、本書を読み進める上で、次第に蒋介石が本当に、そして実は日本が大好きであったということと、それを中国民衆に悟れないように、特に身内の人間にはその思いを悟られないようにしていたのはビックリだった。なにしろ、清朝崩壊後の中国では、どこもかしこも中国がめちゃくちゃになっていており、そんな時代では日本はロシアの勝ち、規律が正しく統制よく戦い、そして近代的な国家になっていたことはアジアのなかではぬきんで居てわけで、そんな日本に憧れを持っていたアジア諸国の人たちは多かったが、蒋介石もそのうちの1人であったようだ。

当時の日本への留学は各人の思いと何を修得していくのかということ自体で変わるとおもうのだが、蒋介石は中国を国家として強国にするため、日本から学べるものは何かと考えたときに、中国人には成し得ていない軍の規律を学ぶために日本に留学してきた。ここはいろいろな本で記載されていることなのだが、その留学地、新潟の高田の駐屯地での生活というのはほとんどの本では記載されていない。短い期間でしか高田には居なかったようだが、この中でよい上官に出会い、日本人の心からの良さを知ったことは蒋介石に衝撃的だったことだろう。

その後にも何度も日本にきて、中華革命・国家統一のために日本の要人ともあっていたということは知らなかったので、なぜ日本や蒋介石の研究をしている人たちはこれまでこの事実を言わなかったのだろうということが不思議であるということと、日本の要人と話をしていたときには日本語で話をしていたというのもビックリした。英語が話せないために、ヤルタ会議では英語で会話されていたイギリス、アメリカ、ソ連の指導者と会話ができず、奥さんの宋美齢が通訳をしていたというのは有名な話だったが、日本人との会話では日本語で話し、通訳が要らなかったこともビックリだ。そして、のちに結婚する宋美齢が日本嫌いであったため、奥さんの家からの資金を充てにしていた蒋介石にとっては、日本語を話し、日本が好きで、日本人を良いと思っていること自体は隠すべき事項であったことは悲しいことだったろう。

日中戦争が始まり、日本軍が中国の土地を侵食していくのは蒋介石にとっては苦々しいことだったのは当然だろう。だが、そのような状態になっても、蒋介石は日本の軍隊を憎んでいたとしても、日本人の良さを肌身で知っていることと、日本の皇室・日本人・日本の国家を愚弄するようなことは絶対なく、中華民国人に対しても決して日本を愚弄するようなことは許さなかったというのは素晴らしい姿勢である。軍人の思想が悪く、日本が悪いということではないというのは、台湾にもそのまま残る思想であり、中国大陸の中でも多くの人は頭では理解している思想である。ただ、残念ながら中国大陸の場合、共産党というどうしようもない独裁組織が民衆を押さえつけているため、民衆からの反感を共産党がモロに受けるのが怖いためか、思想教育として日本はすべてが悪いと教えていることは、本当に信じている中国人にとってはかわいそうなことだ。本当なら戦時中もこれと同じことが中国で教育とされてもよかったはずだが、それを蒋介石は絶対許さなかったし、たぶん周りにいる宋美齢や部下にとっては、蒋介石はなんで日本に対してそんなに甘いんだ?というようなことを本気で思っていたことだろう。

それが決定的に露呈されたのが、西安事件として起こったことだろう。ぜんぜん日本軍に対して戦おうとしない姿勢にいらだった、日本人に父親がぶっ殺されたことを非常に恨んでいた張学良は蒋介石を軟禁し、共産党本部に連れて行き日本人と戦えと脅すのは、蒋介石にとっては苛立ったことだろう。なぜ日本人のことを知らないやつに、日本のことをとやかく言うのだ?そして、何も知らないし、思想的にも破壊しかしない共産党の言うことを聞くのだ?と思ったことだろう。

戦時中には蒋介石はチャーチルやルーズベルトのような聡明さを露わなさなかったと一般的には思われているのだが、実は世界情勢に対してはすこぶる敏感で、当時そんなに情報が発達していなかったわりには、日本国内で起こっている事象や欧米の動きについてもよく知っていた。ところが、共産党によるめちゃくちゃな動きに対してだけは、ゴキブリが勝手に家のなかを駆けずり回っているかのような存在だと思っていたようで、それがどうしても許せなかった。最後の最後まで蒋介石の手を焼いたのは、この共産党。しかし、蒋介石のこの情報力はどこから出てきたのだろうか?それは宋美齢を中心とする英語を理解する人たちの活躍なんだと思う。

書籍「蒋介石が愛した日本」というよりは「日本を愛した蒋介石」という風に名前を換えたほうが良かったんじゃないかと思う内容が散りばめられている。蒋介石の目から見た日本の様子だったら、この本のタイトルの通りでいいと思うのだが、日本のことは大好きであったために蒋介石が何をしたのかという紹介に終始した内容になっているので、やっぱり後者のほうがしっくり来る。従って、日本LOVEと思っていた蒋介石がどんだけ日本に対して庇っていたのかというのを中心に読み取ればいいだろうと思った。

蒋介石が愛した日本
著者:関 榮次
新書: 253ページ
出版社: PHP研究所
発売日: 2011/3/16


2013/05/13

クォン・デ(書籍)

ロンドン渡航時に伴う行き帰りの飛行機は、機内のエンターテイメントを観るのもいいが、最近は観ていると疲れちゃうので、本を読むことにしている。その時に読む本を選んでいたときに、気になったのは「クォン・デ―もう一人のラストエンペラー」という本だった。「ラストエンペラー」という言葉がとても気になったので、中国かなぁ?とおもったら、実はベトナムのことだったと知ったときに、そういえば、ベトナムの歴史ってホーチミンや古都フエに行ったことがあるのに、いまいちよく解んないなという思いから、勉強のために手にとって読んでみた。

読んだあとの感想としては、なぜこの人のことを誰も今まで教えてくれなかったのだろうか?ということ。第二次世界大戦前の帝国主義下のアジア各国をヨーロッパ列強は植民地として見下されていたわけで、それは歴史の授業でも習うので当然知っているが、その支配下で独立に向けて各国がどのように奔走していたのかというのは誰も教えてくれない。そして、その対象国が日本から遠ければ遠いほど、情報が希薄になるだけでなく、どうでもいいこととして処理されることが多いのも事実だ。特に小国ベトナムなんかのことだと、中国の影に隠れてしまって、場合によっては中国と同一化されて考えられるために余計影が薄いのかもしれない。本書のなかで出てくるクォン・デおよび大革命家として有名なファン・ボイ・チャウは、同時代の第二次世界大戦前に、ベトナムのフランスからの独立を目指した人物でどちらも祖国のために汗と血を流した有名人であり、クォン・デは王家の人物である。

日本ではどのガイドもベトナムからの独立を目指して戦ったのは、ファン・ボイ・チャウが中心になって行ったと書かれており、ホーチミンの真ん中に銅像として勇ましく立っているのはファン・ボイ・チャウの像。じゃぁ、同じようにクォン・デはどこで国民の英雄のように立っているのかというと、これが無い。むしろ、ベトナム人の多くはクォン・デのことを知らないことになっている。それは著者であり、TVのドキュメンタリディレクターとして活躍している森達夫氏の取材によってそれは本書の中で明らかになっている。しかし、クォン・デが最初からベトナム人に知られることが無かったということではない。むしろ、最初はクォン・デは救世主であり、ベトナム独立運動のためのシンボルとして長らく期待されていたのであり、当時統治していたフランスがクォン・デ逮捕に向かえば向かうほど、ベトナム人が総出で自分が捕まってもクォン・デを逃がすようなことをするほどクォン・デにベトナム人は期待していた。

ところが、本書でも記載されてはいるので、詳しくはそちらを読んでハラハラ・どきどきの感を得て欲しいところではあるが、アジア人がみんなヨーロッパ人には敵わないと思っていたのに日本がロシアと戦争をして勝ってしまったことは、アジア人もヨーロッパ人にやろうと思えば勝てるんだという勇気を得たのは、孫文が欧米列強に蝕まれている清の体たらくをなんとかし、民主主義国家を目指していたのは有名だったが、ベトナムだって同じようなことを考えていたひとたちは居た。それがクォン・デであり、将軍ファン・ボイ・チャウだった。日本はなぜ欧米と方を並ぶような列強になれたのかという憧れは、日露戦争後に日本に注目して留学者が多くやってきた中国人と同様の思いがあり、クォン・デもその思想の輸入と、日本に対してフランスを追い出すために手助けをしてもらいたいという協力要請で日本に向かった。

この日本でのクォン・デの行動が凄い。当時の要人という要人および、怪しい秘密結社の黒幕の人間には片っ端から面会しており、すべての人たちに協力の承諾を得ていているのである。そのなかでも有名なのは犬養毅であり、首相にまでなった犬養を父親とみなすくらい尊敬の念で頻繁に犬養家に行っていたようだ。ただ、日本は徐々に軍国主義に入っていく時代であり、一番の頼みの綱の犬養毅も226事件によって暗殺される。ここでベトナム独立の夢は1度目は崩れたとクォン・デは思う。ところがこれではヘコたれない。人脈という人脈を使って日本の要人から武器とベトナム人の独立運動に対する要請を着々と頼んでいく。

ところが、ベトナム本国にとっては、すぐに強力な日本人大群を引き連れてベトナムにクォン・デが帰って来るものだと期待していたのに、一向に帰ってこない。日本での運動がうまくいくときといかないときは結構あるわけで、クォン・デがベトナムと日本を行き来するよりは、参謀として活躍していたファン・ボイ・チャウが密航によって香港を経由してフランス官警の目を盗んでベトナムと日本の間を連絡として行き来していたのである。ファン・ボイ・チャウからクォン・デの様子は既に結婚していたクォン・デの奥さんと子供にも伝えており、ファン・ボイ・チャウがベトナムに帰って来るのに、なぜクォン・デは帰ってこないのだという不満が徐々にベトナム人に伝わっていくのである。

しかし、クォン・デのほうも何度もベトナムに帰国したいという希望はあったのだ。しかし、それも何度も自分が原因ではなく、周りの影響により帰国が難しい状態になってしまったのである。これがさらにベトナム人のなかでクォン・デは役に立たないという気持ちがでてきてしまって、最終的にはクォン・デはベトナムに奥さんも子供もいるのに、日本で女を作ってしまったというデマを生む土壌が出来てしまい、それがベトナム中にあっという間に広がってしまったのである。広げたひとはベトナム人が噂で広めたのではなく、クォン・デの帰国を好ましくないと思っていたフランス植民地政府が勝手にデマを誇張して吹きまくっていたのである。これを素直なベトナム人は信用してしまった。

のちにホーチミンがフランスからの独立と南北ベトナムの統一にむけて動くのだが、ホーチミンからすると、いまさら王家が帰ってきて共産党が進める考えにクォン・デは居ては邪魔でしかないと考え居たので、ベトナムからフランスが居なくなったあともベトナムではクォン・デを思い出すような時勢を土壌ができあがらなかったのが、クォン・デの存在を復活させるものではなくなった。

そういえば、この本の中では、新宿・中村屋の名前が頻繁に出てくる。現在は中村屋といえばカレーの店というイメージが強いのだが、当時の中村屋は亡命外国人の溜まり場であり、意見交換ができる場所であったのである。その中村屋の娘に対してクォン・デは仄かな思いを出すのだが、今で言うところのストーカー行為をするのである。相手が外国の王家の人であることは知っていた中村屋の娘にしても、好きでもない人に付きまとわれては気持ち悪いと思うだろうし、クォン・デについても王家の人間だから周りから自分に対して厳しく注意してくれる人がこれまで居なかったようなので、日本人の多くが「あなたの行動はおかしい」としかってくれる光景にであったことは、自分が人間として生きているということに満足する点はなんとなく理解しにくい。

最後の最後まで、クォン・デに関する現在のベトナムでの調査をするが、最終的なオチがいまいち調査不足のためか、それでおわり?という感が読んでいて拭えなかった。しかし、本書の中で、筆者はクオン・デの孫には会え、もう誰も訪れることが無く、壊されたクォン・デの墓に献花し、ベトナム史の大家が公にはクォン・デの存在は言えないが、オフレコでクォン・デのことをベトナム政府には内緒で話をするという場面がでてきたときには、まだまだベトナムも情報コントロールされている国なんだなという気がした。

ベトナムの近代史を知るためには是非読んで欲しい書籍だと思う。

クォン・デ―もう一人のラストエンペラー
著者:森 達也
出版社: 角川書店
発売日: 2007/07
文庫: 351ページ

2013/05/12

ポルトガルに関する雑誌いろいろ

ポルトガルに関する本は意外と少なく、渡航前に何冊か読もうと思ったのだが、その種類が少なすぎて、結局似たような情報しか手に入らなかったことが、個人的なポルトガルに対するイメージを渡航前に「つまんない国」または「発展性がない国」という印象を与えてしまった感がある。しかし、それが現実のポルトガルを映し出した各著者のもつ印象なのだろうとおもうと、致し方ないということは受け入れることにした。
さて、まずはポルトガル全体の様子を満遍なく網羅し、歴史的な意義や各都市の見所に関して多くのカラー写真を使って説明しているのが、「旅名人ブックス」シリーズの「ポルトガル」である。こちらの本は渡航前に読むのは必須に近いと思うのだが、これをそのままポルトガルに持っていくのは荷物が重くなるだけなので、渡航前に熟読したほうがいいのだが、参考資料としては持っていたほうがいい本だと思う。なにしろ全ページカラーなので1枚ずつの紙が厚いため、結局それを持ち運びしながら観光するには不適なのであっ、ホテルに置きっぱなしにするか、自分なりにスキャナでデータ化してタブレット端末に入れて持ち込むと言うのもありだろう。旅名人ブックスでは、ポルトガルが海洋王国として君臨した偉大なる時代があるということを紹介しつつ、いまはその栄光時代のときに培った遺跡や史蹟を観光客目当ての素材として使っているところであると説明する。しかしながら、全く悲観的な様子はここでは説明していない。あくまでも事実のままに歴史と現実を述べているだけのことだ。全部で480ページもある分厚い本の中には、リスボンやポルトのような大都市だけじゃなく、地方都市やマデイラ島のような島嶼部も掲載されているので、ポルトガルに行ったことがあるという人が居ても、そんな深いところまで探ったことが少ないと思われるので、結構参考資料として十分適しているだろうと思う。
既に廃刊にはなってしまったが、雑誌「旅行人」にもポルトガルにフォーカスをあてた特集記事がある。もちろんこれも買ってみた。2011年下期号であるNo.164は「特集ポルトガル・サウダーデの国のすべてを旅する」である。前者の旅名人ブックのほうがポルトガル全土を写真で網羅しているものと考えれば、こちらは部分的なテーマを設けて、そのテーマに基づいて深く追求した内容になっている。特に旅名人ブックでは載っていないテーマとしては、古代民族の建築および遺跡というのをテーマにしているところ。リスボンではないのだが、ポルトガルにも古代文化は存在しているところだろう。それとアズレージョとファドについても、この本に記載されているのが一番詳しいので、是非渡航前には読んでおいて損はないものばかりだ。おもしろいのは、ポルトガル側からスペインの北部にあるサンチアゴ・デ・コンポステーラに向かうための巡礼の道を報告しているというもの。だいたいの場合はピレネー山脈を通って、バスク地方を通る巡礼の道ばかりだが、ポルトガルのほうから北上していく巡礼というのもあるのだぞというのを紹介しており、道中の様子を述べているのは個人ブログで書かれているくらいしか読んだことがない。これも注目だ。「リスボンの乗り物に揺られて」という記事は、どうしてこんな人が記事を書いているのかというくらいつまらない。読む価値はない。その記事以外はどれも素晴らしい。
 そのほかの雑誌系としては、雑誌「TRANSIT」も棄てきれない。ポルトガルだけをフォーカスした特集はまだないのだが、第3号はスペインも含んだイベリア半島全体の特集。スペインやポルトガルという国家レベルとしての比較ではなくて、半島全体に存在していた過去の国家や文化の違い、民族性や宗教観というものが全体的に載っているのが、情報として整理されていてとても分かりやすい。行きたくなるようなワクワクする写真を載せているのは毎回TRANSITの特徴だとは思うのだが、実際に行ったことがある場所の写真を後から観ると、自分が撮った写真がこの雑誌に載せている写真から影響されているというのがよくわかる。この雑誌をみると、スペインとポルトガルと分かれている半島の地域も、ピレネー半島の南にあるキリスト教の国家というジャンルで観れば同じようなものだと思う。が、となりは巨大なスペイン、もう一方は小国ポルトガル。いやおうがなにもポルトガルのほうがスペインの影になって注目がいつも当たらないのは仕方ないのだろう。
これまでの雑誌はどちらも料理についてはあまり言及していない。ポルトガルという国全体を記事にしているためなのだろう。料理の本としては次を読むといい。「ようこそポルトガル食堂へ」だ。表紙には、料理の途中で味見をしているおばさんが写真に撮っている。これだけみても、中身はおいしそうなものだと想像できる。これは女性目線で取材をしているものだからなのか、すべてがすべて男性的なことが出てこない。すべてがご飯ばかり。ポルトガル全体の色々な街を巡って地元の美味いものを食べたり、人気の店に行ったりとしているのを紹介。ポルトガルには相当長く住んでいるんだろうとおもうのだが、そんなところ、絶対ポッといくような旅行者では行かないだろうというところばかりが出てくるので、ポルトガルにいく事前調査としてこの本に記載されているところに行こうとするのはダメだと思う。まず移動手段がないものばかりだからだ。
最後にJTB出版から出ている「ポルトガル・小さな街物語」というのも旅名人ブックスとは違った目線で取材をしているのは面白い。しかし、記載しているのは複数のひとが行っているのではなく、女性の記者による記載であるために、あらゆるところに主観的なコメントが入っているのが気になる。ポルトガル全体を紹介しているのはいいのだが、その人の主観を押し付けているような印象があったことを、読んだ後に気になった。そして、他の本では普通に紹介されているものだとつまらないと思ったのか、どこ、それ?というような場所の紹介ばかりしている。したがって、単なるポルトガルの田舎の村ばかりを読まされているようだった。

Sheraton Skyline Hotel London Heathrow

リスボンからの帰国のときには、飛行機の関係で、一度ロンドンでトランジットするしかなかったし、更に言うと同日にトランジットできればそうしたかったが、出発時間が美味く噛みあわなかったために、ロンドンで仕方なく1泊しなければいけないということになった。ところが、1泊しかしないために、ロンドン市内に行くというのも時間の無駄だし、ロンドン市内で遊ぶというのも時間が足らないとおもったことと、更にロンドン市内の地理感覚が全くわからないので、空港から市内までそもそも近いのか、どこが繁華街なのかという情報が全く分からなかったため、それだったら、空港近くのホテルに宿泊して、翌朝の便をのんびりいけたほうがいいだろうとおもったのだ。

ヒースロー空港の周りにはトランジットホテルがめちゃくちゃたくさんあるのだが、日本の地図みたいに詳細な地図なんか海外で求めるのは不可能に近い。この地図の問題を考えるたびに旺文社ありがとうーとおもうのだが、どうして海外の地図はすごいアバウトな地図情報しか無いんだろうか?それはともかく、多くのトランジットホテルを探しているところ、1つの特徴を発見した。国際的チェーンを持っているホテルの場合、これが市内じゃ無くても意外に高い宿泊費が必要だということ。とはいっても、名の知られていないようなホテルが他にもあるのかというと、これがあんまりないのと、あったとしても、空港の傍のくせになかなか面倒くさい場所に存在するというのが実情だった。そう考えると、チェーン店ではあるのだが、比較的安いところを探してみることになった。

それで探したのが、「シェラトン・スカイラインホテルロンドンヒースロー (Sheraton Skyline Heathrow Airport Hotel)」というところ。シェラトンのホテルはロンドンにはめちゃくちゃたくさんあるのだが、ここのホテルが値段から考えると一番手ごろだと思ったからだ。ただ、このホテルに到着する前まで、一体空港からホテルまで遠いのか近いのか全くよくわからなかったというのが少し不安要素ではあった。いちおう地図はあったが、その縮尺による距離間がつかめなかったからである。
ホテルまでの交通手段は近くに地下鉄の駅が存在しないこともあり、タクシーでの移動しかないと思っていた。行きはホテルまで15ポンド。この時、初めてロンドンの黒タクシーに乗る。黒タクシーについては別のところで記載したいところだ。しかし、帰りは道の関係なのかわからないのだが、12ポンドだった。というのも、行きはメータでの料金支払いだったのだが、帰りのときに、乗車前にタクシードライバに「空港まで値段ってどのくらいですか?」と聞いたところ「12(ポンド)だね」と言われて、そのあとメーターを倒さないで走ったからである。帰りのドライバは結局そのまま12ポンドでOKだったので、それ以上ボラれることは無かったのだが、よく考えたらぼられる可能性はあったかもしれない。それにしても、同じ道を走っているのに、3ポンド、500円の差が出てくるとは面白い。
ちなみに、帰りは結局タクシーをホテルで呼んでもらって、ホテルから空港に直接移動することにしたのだが、ホテルのロビーのところに、近郊のホテルを含めて空港との間を循環で運行しているバスの存在を発見した。1人あたり4.5ポンド。事前にロビーのところの自動販売機で購入することになるのだが、時間としてはどの程度かかるのかわからない。ただ、バスは20分おきに運行しているようだった。特に事前予約は必要なし。タクシーで移動した場合には空港とホテル間はだいたい15分で到着することができる。

実際にここのホテルはトランジットホテルとしては空港に近いほうにあると思われる。そのためなのか、トランジットホテルなんてあんまり利用する人なんか居ないだろうと鷹を括っていたのだが、実際にはかなりたくさんの人がホテルに泊まっていることを滞在中に知ることになる。大体の宿泊客は、ロンドン市内に出て行かないで、自分の出発までホテルでのんびりしていたいという時間に余裕のある人たちばっかりだったと思われる。中には日本人の人も居たのだが、そのひとはたぶん出張だったのだろうと思う。
ここのホテルを予約するときに、ホテルラウンジが利用できるタイプを予約したため、チェックイン後、荷物を部屋に置いたら、そのままラウンジへ直行してみた。昼間に到着したので、昼間から利用している人なんかあんまり居ないだろうと思っていたら、大間違いだった。そう、ここはトランジットホテルであり、これが街中であれば普通は街中に遊びに行っている時間帯ではあるのだが、街中に出て行こうと思わないような人たちばっかりが泊まっている場所なのであって、時間があまりに余っている人たちが集まっている場所なのである。そういうひとがホテルでなにをするかというと、ご飯を食べるか、部屋でのんびりしているか、ラウンジが使えるならラウンジを使っているんだろうということになる。そのラウンジ利用可能者が昼間から集まって何するでもなく、勝手に飲んだり食べたりしているという状態に出くわしてしまったのである。
ちなみにホテルのラウンジはそんなに広いわけじゃないのだが、クッキーやサンドイッチなどの軽食を食べられるものは用意されていたし、ビールは飲み放題だったし、ウィスキー類もそこそこ揃っていたのは、のんびりする場所としては良かったと思う。もちろん、備えつけのPCもあったりする。ただし、ここのPCはネットワークが悪いのか端末が悪いのかたまにネットワークに接続できないという状態になるときがあるので不安定である。ちなみに、自分たちが利用したときには、無線LANの環境は一応あったのだが、ラウンジであってもそれはホテル宿泊者が有料で利用できるというものだったので、金を払ってでもネットに接続したいなんていう欲望は無かったから、あっさり無線LANを利用することは止めた。シェラトンはこういうところはケチだなとおもう。
 
 
 
 
 
さて、部屋の様子だが、ラウンジからあまり離れていない場所に部屋があてがわれたのだが、部屋はよくあるシェラトンのスタンダードタイプであるため、非の打ち所は無し。ただし、スリッパーと歯ブラシセットが無いので、これはフロントに行ってもらってくる必要がある。浴室も浴槽つきのタイプであったため、夜ならのんびりとお風呂に入って疲れを取るということもできるから便利だったし、無料のミネラルウォータもあるから特に飲み物を買う必要もない。なにしろ、ポット器具も用意されているので、ここで部屋にあったお茶でも飲むのでもいいだろう。
 
 
 
 
 
そういえば、ホテル内にスタバがあることを発見した。どこにいってもスタバがあるのはもう世界の常識になっているところだが、こんなホテルの中に、ホテル宿泊者向けにのみ解放しているようなスタバって、いったい売り上げはどのくらいあるんだろうか?と疑問になる。ロサンゼルスにあるウェスティン・ボナベンチャーに随分昔に泊まったときにもホテル内にスタバがあってビックリしたのだが、そのときと同じ驚きはあった。
朝食はラウンジ利用者はラウンジで利用することができる。朝食つきのタイプの予約を採っている場合は、1階にあるのだが、建物の真ん中にあるプールを挟んで、フロントと反対側にあるレストランでご飯を食べることになる。しかしバイキング形式のところで自分たちも食べられると思って行ってみたが、「朝食のサービスは有料だったらご利用できますが、そうじゃなければラウンジのところをご利用ください」と言われてしまった。わざわざイギリスのバイキングのために1人あたり10ポンドも払うのはバカバカしいなぁーと思ったのでラウンジに行く。
 
 
ラウンジで用意されていた朝食のメニュは大したメニュは用意されておらず、簡単なパンやヨーグルトやシリアルは用意されているだけであった。もちろんコールドミールとしてのハム類は充実だったのだが、できれば温かいメニュも用意されていて欲しかったところである。
 
夕御飯はというと、ホテルの傍にレストランがあるわけでもなんでもないので、宿泊客はホテル内にあるいくつかのレストランに行くしか選択がない。またはラウンジで飲んだ暮れになって、食べないという選択もあるが、これはアル中になるだけなので却下。とは言っても、ホテル内で営業をしていそうなところは、どうやら「SPORTS」というところのスポーツバーのレストランしか開いていなかったので、そちらに行ってみた。名前の通り、イギリスのサッカー・プレミアリーグの試合を大型画面で放映中のところで、内装はアメリカ西部のような雰囲気だった。
 
しかし、ホテル内で食べるご飯と言うのは期待はあまり出来ないのと、さらにここはイギリスである。ご飯なんか食べられればいいやと思っていた程度であったのと、ホテル価格のために、単純なものではあったのだが結構値段が高かった。さすがロンドン。今回の食べたメニュは下記の通り。

・Battered Fish and Chips with tartar sauce and lemon : 11.00ポンド
・Curry Platter : chicken tikka masala, Bhuna gosh and lentil Dhai : 17.60ポンド
 
 味はどちらもどちらで、お世辞でも美味いとは言えない。お腹がちょっと満たされたという感想が出たとおりである。しかし、初めてたべたイギリスのフィッシュ&チップスは、もっと不味いものだと思っていたのだが、意外に普通の白身魚のフライであったので拍子抜けした。

シェラトン・スカイラインホテルロンドンヒースロー
Sheraton Skyline Heathrow Airport Hotel
URL:http://www.starwoodhotels.com/sheraton/property/overview/index.html?propertyID=268&language=ja_JP
Address :  Bath Road (A4), Hayes, England UB3 5BP
Phone : (44)(208) 7592535

リスボン市内の様子(そのほか)

リスボン全体を通して、特にトピックを設けなかった点について、追記という形で1つ項目を起こしてみた。それぞれの項目は1つのトピックとして長く文章が書けるほどでもないものばかりである。

ベレン地区とテージョ川を挟んで対岸のアルマダ地区を結ぶために作られた吊り橋が、「4月25日橋(Ponte 25 de Abril)」と呼ばれるものだ。見た目はサンフランシスコのゴールデンゲートブリッジみたいな形をしている。長さ2277mの橋は、1966年に開通したときには、当時の独裁者アントニオ・サラザールの名前にちなんでサラザール橋という名前だったのだが、1974年に起こったカーネーション革命(Revolução dos Cravos)の際に革命が起こった日付をとって、橋の名前がいまの4月25日橋という名前にかわったといういわくつきの橋だ。
この橋は高速道路と鉄道が走っている橋であるため、近くに行っても見ることができるのだが、ホテルからたまたま遠くに見える橋が見えたので、結構高台があるリスボンのしないからはどこからでも見られるんじゃないのかという気がした。

リスボン市内を歩いていると、歩道のところは見事なまでにモザイク模様にデザインされたたくさんの場面をみることに遭遇することは多いと思うのだが、これ、一体どうやって作っているんだろう?という単純な疑問がわいてくるのは当然だろう。もちろん、これは自動的に作っているわけじゃなく、実際には人間の手で作られているものなのだ。たまたま、その作っている場面に遭遇してしまった。
場所は交通の要所であるポンバル侯爵広場のところで、花壇があるのだが、その傍にもやはりモザイクのデザインの歩道が存在する。そこで補修作業を行っていたところに遭遇したのだ。働いている人たちはどうみても旧植民地からやってきたアフリカの人たち。ポルトガルの経済は、他のヨーロッパ各国が右肩あがりになっていったとしても、1人だけ取り残された感がいつまで経っても拭いきれないところではあるが、それでも宗主国だったポルトガルのほうが旧植民地よりは仕事があるという思いはあるために、とりあえずリスボンまでやってきた出稼ぎの人たちである。アフリカはほぼすべての国がヨーロッパの国のどこかの植民地であったのだが、ポルトガルの植民地だったところに限って言うと、モザンビークやアンゴラが上げられる。ここは2000年に入っても内戦が続いていたところであるので、そこから逃げてきたひとたちやその子供たちがリスボンに居るといってもおかしくないだろう。ただ、たぶんいまのポルトガルの経済がダメなところまで行っているので、それほど多くのアフリカ系の人たちを街中に観ることは無かった。たぶん、出稼ぎの黒人は、もっと経済的に発展しているが同じポルトガル語が通じるブラジルのほうに行っているんだろうと思う。だから、リスボンに残っている黒人はブラジルに行きそこなった人、奴隷じゃないが重労働のような仕事についている低賃金者、あとは広場によくいる麻薬売人としているんだろう。

彼らの仕事の傍で仕事をしていたとき「なにを撮っているんだ、おまえらは?」と思わず襲われそうな木が下ので怖かった。ただ、傍に現場監督をしているポルトガル人がいたので、たぶん彼らは文句を言わずに、小さいブロックを1個ずつ丁寧に並べていって、あの綺麗なモザイクを作っているのだろう。

それから、日本人は歩くのが早いといわれるのだが、リスボンの人たちだって負けていられない。特に地下鉄の乗り換え駅のときに、コンコースを歩くひとたちの足の速さは、日本人に負けず劣らずだった。たぶん何も考えず、自分が乗り換える電車に間に合いたいがためのただその欲望から歩くのが早いのだろうと思う。

リスボン空港

リスボンの空港は、ポルトガルのゲートウェイとしては無くてはならないものだろうと思う。そして、市内に比較的近いところにあるために、交通の便もよく、時間もそんなにかからずに移動できるというのはメリットだ。リスボン空港と市内の移動手段でも記載したが、交通手段はなんでもあるので、旅行者の気分によってなにを使ってもいいと思う。行きは空港でタクシーをチャーターしたのだが、同じ距離を帰りはホテル前に停まっていたタクシーを使うと、9.90ユーロだったので、リスボン空港に到着したときには、インフォメーションカウンターで提示された価格はボラれたものに等しい。が、それは正規料金である。そういうやりとりが面倒くさいと思うのであれば、地下鉄やバスを使ったほうがいいだろう。だいたい時間として空港と今回泊まったホテルまでは、15分程度だった。
クリスフライヤーのゴールドメンバーになったため、スターアライアンスで利用した場合、空港ラウンジが利用できる特権は持っている。リスボンの空港でも出発までの時間は、タクシーで早めに着いたこともあり、早速ラウンジに直行してのんびりすることにした。なにしろ、お土産は既に街中にいたときに購入していたので、空港でわざわざばら撒き土産を含めて買う必要がなかったからである。
リスボンの空港のラウンジはなかなか広くて、TAPポルトガル航空のイメージカラーである、朱色と黄緑色というのが、ラウンジの中のいたるところにもデザインとして利用されていたのは印象的だった。それも北欧デザインとは異なるし、アールデコのようなデザインでもなく、独特のデザインとインテリアで作られているラウンジだった。
ユナイテッドの成田にあるラウンジは、食事がショボすぎて泣きたくなるようなものだったが、リスボンのラウンジのご飯は、かなり豊富な種類を持っているために、なんとなく何でもかんでも選んでしまって、これでお腹が一杯になってしまうと思った。この時、既にホテルで早めの朝食を摂っているために、別にそんなに口に入れる必要は無いのだが、なにしろ目に付いてしまったら、人間の欲望としてはついつい手を出してしまうということになる。何と言っても、ポルトガルならではのエッグタルトがここでも出来たてのものが食べられるというのは面白い。どこまでエッグタルト様サマなんだろうとは正直思ったが、ポルトガルなのでそれは許そう。アルコールに付いてもポルトワインは当然あるが、ビールもウィスキーも全部飲み放題なので、乗る前に飲みすぎてしまうのもわからなくもない。
 
 
もちろんラウンジの中では無線Wi-Fiが無料で利用できる。ただし、無料といってもSSIDに対するパスワード規制があるため、利用する前には、ラウンジのカウンターのところでパスワードを貰うことが必要だ。結構他の空港のラウンジ傍で見かける光景があるのだが、ラウンジから漏れてくる無線Wi-Fiを勝手に使おうとラウンジ前に陣取る中国人を結構見かけるのだが、ここではラウンジ前に陣取ってもパスワードが分からなければ利用することはできないというものだ。本来ラウンジとは、特権を持ったひとだけが、そのラウンジ内で提供されているサービスを利用出来るというものだから、資格が無い人にこぼれて来たサービスを使わせてあげてもいいというのは間違いな考え方だ。
そういえば、リスボンから出発する前に駐機場に停まっている飛行機の写真を撮っていたところ、「空港内は撮影禁止ですっ!」と係員に怒られた。なんで?なにか映ってはいけないものでもここにはあるわけ?!こんだけの乗客のひとが窓の外の景色をみているのになんで写真に撮ってはいけないわけ?!実は、搭乗口でのこの注意もそうだったが、チェックインカウンターのところでも同じように注意された。つまり、空港内は全面的に撮影禁止なのである。でも、バレなければ撮影をしてもいいんじゃないかとおもう。なぜなら、自分たちのほかにもスマホでバシバシ写真を撮っている人たちを結構観たから。

TAPポルトガル航空を含めてスターアライアンスの航空会社を利用してリスボンから出発する場合は、ほぼ全員自動チェックイン機械にてチェックインを行わせるようなことになっている。空港に到着すると、そのあまりにも長い待ち行列にウンザリすると思われるが、まぁちょっとはガマンして欲しい。たぶん20分後には自分たちの番が廻ってくるはずだ。チェックインカウンターの機械はかなりたくさんあるので、どこかの馬鹿が操作をなかなか出来ない状態であったとして、後の人たちが詰まっているということはなく、順番に係員が「あなた何番のカウンター」とテキパキと誘導してるので問題ない。カウンターでは、荷物を預けて、それで終わりである。

リスボンカード

リスボンの街中にある数多くの史跡や有名箇所を廻るのには、是非リスボンカードと言うのを持参していたほうが良いと思う。これは、有効期間内であればリスボン市内のすべての交通機関は無料で利用できるということと、市内および郊外にある史蹟で有料の場所は無料で見られたり、特権として割引になって観ることが出来るということができるというものだ。このカードを持っているほうが、1箇所ごとに入館料等で支払いをする必要もないので便利だし、有効期間内に廻る場所を効率よく決めていけば、リスボンカードを購入するときに支払った金額なんか、すぐに元が取れるというものである。

リスボンカードには、24時間/48時間/72時間有効券の3種類が存在しており、利用するには、裏面にサインを記載すればいいだけ。別にこれは漢字でもいいし、アルファベットでもどちらでも良い。そして、カードの有効は、購入した時点とか、サインを記載した時点というわけではなく、そのカードに記載したサインを記載した時間から24時間や48時間というものなのである。だから、最初に使ったときに早朝であった場合には、24時間だったら、また早朝までが有効期間というわけになる。決して日単位ではないので、利用開始した日が終わってしまったら次の日には使えないというわけじゃないことも間違いないように。サインを書いているときや時間の記載のときには、係員がチェックをしているので不正が出来ないようになっている。

そういえば、購入に関しては注意が必要だ。このカード、どこでも買えるかというと、そうではない。ホテルのコンシェルジェに言えば買えるかというと買えない。じゃぁ、国鉄駅に行けば買えるかというと、これも買えない。リスボン市内にある観光案内所でしか購入が出来ないのである。だから、観光案内所が運悪くまだサービス開始をしていない場合には、購入が出来ないのである。これは実体験で知ったことである。リスボンカードは、シントラの王宮やシントラに行くまでの電車も無料になる特権があるのは知っていたので、シントラに行くための電車が出発するロシオ駅の窓口で買おうとしたら、窓口のひとが「ここでは無理。下に行って観光案内所で買え」といわれた。なんでこんな不便なんだろうとは思ったが、そうするしかないので仕方ない。

リスボンカードを購入した場合、どこの場所が無料かとか、どこがディスカウントになるのかというのが説明が書かれている冊子を貰える。これと照らし合わせてどこに行くときにこのカードを使えばいいかは、購入後に確認してもいいが、滞在時間が少ない日本人観光客にとっては、もっと事前に情報は知りえていたほうが良い。効率よく廻るほうが時間の無駄にはならない。リスボンカードの公式サイトに、上述の場所をリスト化したPDFがダウンロードできる場所があるので、そこから最新版をダウンロードしたほうがいいだろう。

リスボンカード(Lisbon Card)
URL : http://www.golisbon.com/Lisboa-Card/
カードの種類:24 hours Lisboa Card: 18.50 euros
          48 hours Lisboa Card: 31.50 euros
          72 hours Lisboa Card: 39.00 euros
カードの有効場所:こちらをクリック

Pastelaria Versailles(リスボン)

ホテルから歩いていける範囲ではあるのだが、隣の地下鉄駅サルダーニャ(Saldanha)からさらにちょっと北に行ったレプブリカ通り(Avenida da República)沿いに、実はリスボンでは結構なの知れたパティスリーの店がある。それが、ヴェルサイユ(Pastelaria Sala de Cha Versailles)という名前の店である。

朝の7時半から夜の10時まで営業しているので、朝ごはんの買出しから、夕御飯として利用するまで、各種の食事と持ち帰りを提供する店なのだが、ここは絶対に一度は行ってみてほしいところだと思う。

というのも、ここの店、開業は1932年とそんなに老舗とは言えるものではないとおもうのだが、不景気のポルトガルの中では結構長く営業を続けているとk路緒ではあると思うことと、店の内装が本当に見事で、街は荒廃しきって、住んでいる人たちもなんとなく疲弊し切っている感が拭えないのだが、ここの店の中だけは、ウイーンやパリの老舗のパティスリのような雰囲気と気品と品数とデコレーションがすごい見事だからだ。
持ち帰り用としてカウンターには、すごい種類の菓子パンが売られているケースがある。そこはもうミスタードーナツなんか比にもならないくらいのドーナツやタルトも当然だが、ケーキもある。見た目もおいしそうなものばかりで、気持ち悪いくらい派手な色でデコレートされたものなんかはここには存在しない。どちらかというと上品な菓子パンという感じのものばかりだ。カウンター裏の方の壁にいくと、名前がよくわかんないキャンディーやチョコレートなんかも売られているので、常連客にとっては、もう「あれ、なんですか?」なんか聞かなくても買って帰るようになっている。
 
自分たちのような一元さんの場合には、ガラスケースの中に並べられている種類になにも名前が書かれていないので、これが欲しいというときに、名前を言うよりも指差し呼称で「あれが欲しい」というのを言えば良いのでとても楽だが、常連客の場合には、なにを買うのか大体毎回同じようなので、客が入ってきた途端に、お店の人がその客用に買うだろうと思うものを適当にまとめていたことには、それだけここは常連客にとっては御用達の店なんだろうなというのはよくわかった。

ドーナツのような持ち帰りようなモノばっかりではなく、実はカフェとしても使われている。店に入って左のほうを眺めていると、テーブルと椅子のセットがずらっと並んでいるのが見えるだろう。ここで買って、そのままテーブルで食べてもいいし、テーブルで注文をしてお茶と一緒に食べるというのもありだ。お茶といえば、実は旧植民地のモザンビークのお茶「Licungo」というのがここの店では提供されている有名なお茶らしいのだが、それだけじゃなく、いまでは英国茶なんかも当然置かれているので、不慣れな人は飲みなれているお茶やコーヒーを頼めばいいだろう。
そして、軽食だけではなく、実はここのパティスリー、もうちょっと重そうなご飯も食べることができる。ステーキ類なかも全然パンとは関係ないじゃんとおもうのだが、ちょっとしたレストランよりもおもしろい種類のご飯が食べられるので、夕御飯として使うのもいいだろう。

昼ごはん兼おやつとして立ち寄って、そのままホテルに帰って食べたのだが、その種類の名前が全くわからないので記載できない。しかし、写真は撮っておいたのでそれを載せておこうと思う。
 
 
 
 
 
Pastelaria Sala de Cha Versailles
Address : Avenida da República 15A, Lisbon
Open : 毎日7:30am-10pm