2009/07/27

やよいちゃんデザイン携帯






やよいちゃんが携帯電話のデザインを作ったという話を聞いて、「はぁ!?」と思った。水玉と突拍子もないような奇抜なデザインを考える草間彌生が携帯電話を作るということは、作品自体が想像も出来ない。横浜などで行なわれているトリエンナーレやビエンナーレなどで、彼女の作品をみたことが何度もあるのだが、いつも「どうしてこんな作品が思いつくのだろう」と彼女の精神構造を探求してみたくなるような気持ちを醸し出せてくれる作品が多い。

そこで発表された携帯電話を見てみた。はっきりいって、「キモイ・・・」の一言である。彼女の作品の特徴である水玉は健在だったのだが、犬のモチーフの携帯は可愛くない。かつ、斑点が出ている病気の犬みたいに見えて気持ち悪いのである。別作品として、ハンドバック型の作品もあったのだが、これもまた気持ち悪い。だれがこんなもん持つんじゃいとツッコミを入れたくなる。

量販的に発売するのではなく、買いたいひとだけ買えば?という宣伝の仕方も面白い。なんといっても、携帯電話の価格が1台100万円である。いくら携帯電話の値段が高くなったからといっても、1台100万円なんていうのは凄い価格である。それも今回の作品は、携帯電話であるのだが、通常、携帯電話は単体で購入することは出来ず、かならず携帯電話会社との契約が裏で関わっているため、買ったら電話として使うことが前提で販売される。ところが、この携帯電話に限っていえば、作品としての存在が主であり、たまたま必要であれば携帯電話としても使えるという意味のため、携帯電話会社と携帯の契約をしなくても単体として購入することが出来る。

しかし、誰がこんな携帯電話を買うのかという疑問はある。よほどのやよいちゃんフリークじゃないと買わないんじゃないの?

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 KDDIは2009年7月24日,草間彌生氏がデザインを手がけた携帯電話機3機種の販売を開始すると発表した。販売するのは「ドッツ・オブセッション,水玉で幸福いっぱい」,「私の犬のリンリン」(写真),「宇宙へ行くときのハンドバッグ」である。

 販売価格は,「ドッツ・オブセッション,水玉で幸福いっぱい」と「私の犬のリンリン」がそれぞれ100万円,「宇宙へ行くときのハンドバッグ」が10万 円となっている。芸術作品のため,本体購入にあたりKDDIとの通信契約は不要である。販売方法はKDDIのWebサイトや,芸術作品を扱うギャラリーな どで販売する。販売開始は2009年7月30日である。

http://www.kddi.com/corporate/news_release/2009/0724/sanko.html

2009/07/26

藤子F不二雄大全集

とうとう出たか!と思った。

誰もが一度は読んだことが有る藤子・F・不二雄の全作品をまとめて刊行するというニュースを聞いたときに、「これは絶対買わねばならない」と思った。ドラえもんの中国語版を各地で購入してはいるくらい、いちおうドラえもんは好きだが、他の藤子作品についても当然知っているし、読む機会があれば読んでみたいとは思っていた。テレビアニメでは小さいころに見たことがあっても、漫画で見たことがあるのは実は少ない。オバQやパーマンや怪物クンなんかは、アニメでしか見たことが無いため、登場人物のイメージはアニメで見たものがそのまま脳裏に刻まれている。そんなアニメでしか見たことが無いような漫画も含めて、全部まとめて刊行しちゃうというのだから、どんだけすごい量になるのかと想像したが、はっきりいって凄すぎる量になることが分かった。報道によると、あまりにも作品量が多いため、2回に分けて、2年に渡って分割して発行するというものだった。そりゃぁ、そうだろう。藤子作品だけでも相当の量の作品があるのだ。

単行本にされた漫画はもちろんのこと、雑誌や「小学〇年生」にのみ掲載された漫画も含めて全部今回初めて刊行するというのだから、ファンは待ちきれ無いだろう。もちろん自分自身もそうだ。だから見たことが無い内容の作品も読むことができるのは本当にありがたい。また、一番いいと思うのは、当時発表されたそのままの作品を変更無しに掲載しているところだろう。最近は、PTAやどっかの馬鹿な人権団体が「差別!差別!」とうるさく抗議するために、本来なら日本語として豊富な表現を持っているのに、使えない表現がたくさんできてしまった。別の言い方でも良いだろうと、そのような馬鹿な人権団体は述べるのだが、別の言い方は別の言い方で本来から持っている意味があり、それを差別だと述べる表現語を含めて意味させるというのは、無理があるのである。だから、言葉として違う言葉が生まれていたということを全く理解していない。そりゃぁ、差別だと騒いでいる本人たちは、自分たちのプロパガンダとして主張するいい機会だとおもうのだが、本当に差別にあたるのかどうかは別の問題で、差別だと思っていない人が多いのも事実である。1人でも不快に思っているのであればそれは差別だなんて、横暴も甚だしいような言い方をする馬鹿人権団体も多いが、そういうのを一喝するように「作者の作品としての権利を尊重するために、誰がなんといおうと、作品が発表された当初の原文のままに掲載されています」という表現で刊行した小学館は本当に偉い!とおもった。よくぞ、やってくれた!これで、ドラえもんの中でも出てくる、のび太のお父さんが会社の余興で乞食の真似をするという表現のところも、今では「浮浪者のような・・・」と記載されているのを「乞食のような・・・」と原文そのままになって読めるので、本当にありがたい。馬鹿な人権団体よ、さようなら。

さて、今回の藤子・F・不二雄大全集は第1期刊行として33巻発行される。内訳は、

・ドラえもん8巻分
・オバケのQ太郎5巻分
・パーマン8巻分
・キテレツ大百科2巻分
・エスパー魔美5巻分
・バケるくん
・海の王子3巻分
・ジャングル黒べえ

なのだが、この1巻分というのが普通に考える1巻とは全然重みと厚さが違う。現在単行本として刊行している本の厚さの常識を超えてしまった、電話帳みたいな厚さのような分厚さなのである。大きさとしてはA5版なので、普通の漫画の大きさよりちょっと大きい。持ち運びとして読むほどの大きさではないので、家に保存用として取っておくにはいい大きさだ。だいたい、ドラえもん47巻を全部で8巻に納めてしまうのだから、その分量の多さを考えれば分かりやすいし、刊行されていない作品も含めて今回刊行されるのだから、量はめちゃくちゃ多い。読んでも読んでも終わらないのである。

さて、この33冊が一気に読めるかというと、そうではない。小学館は1年をかけて33冊を刊行するというのである。全部を事前購入すると税込みで50,610円。漫画を買う値段をはるかに超えてしまっている値段であるが、これが大好評のために、既に増刷しているとのこと。そりゃぁ、藤子作品だから買う人はめちゃくちゃ多いことだろう。初回からまとめて購入をしたひとにとっては、別冊のノートをプレゼントという。ノートというのは、藤子・F・不二雄がキャラクターを作り上げるために、試行錯誤したデザインについて、たくさんのイラストが書かれた下書きみたいなもので、これをもっているだけでファンは大喜びだろう。

第2期として刊行予定とされている来年度(22年度)分についても、かなり注目に値する。なんと、古本屋で探しても探しても全然見当たらない「ポコニャン」も収録される予定なのだ。第1期のほうはメジャー作品が多いのだと思うが、第2期こそ、藤子作品の本髄を見られるような気がする。「まんが道」なんかの作品もこのときに出てくるようだ。

そんな話題騒然の藤子作品大全集なのだが、7月23日に突然第1回分が郵送されてきた。中身は、「ドラえもん第1巻」「オバケのQ太郎第1巻」「パーマン第1巻」と、初期のドラえもんのずんぐりむっくりしたポストカードである。ドラえもんについては、初めてドラえもんがのび太の家にやってきたときの作品が出ているのだが、これが、掲載された刊行本によって全然違う作品になっており、それを全部今回は集めて載せているところに小学館の力の居れようが分かる。ドラえもん作品は1種類しか無いのかと思っていたのだが、机からドラえもんが出てくる最初の作品について、こんなに違うバージョンがあったのかというのを初めて知った。
パーマンは、アニメでしか見たことが無いのだが、主人公「みつお」がパーマンになるきっかけというのを初めて知った。また、パーマン2号が、アニメだとどこかに飼われていてたチンパンジーだったのに、漫画では動物園のチンパンジーだったことも初めてした。そして、アニメだと、「ウッキ-」としかいわない2号の言っていることをなぜかすべてのパーマンが理解できているのだが、最初のころは、2号の言っていることはわからず、2号がジェスチャーで言葉にしているというところも面白い。
オバケのQ太郎なんて言うのは、もう初めて知ったことばかりだった。最初からO次郎やドロンパのようなお化けが居たのかと思っていたのだが、出てこないし、玉子から生まれたなんていうのも知らなかったし、正太郎の家に「飼われた」事になっているのも知らなかったし、家に住んでいるのではなく、庭の地下に勝手に住み着いているというのも知らなかった。オバQこそ、今回読んでみて欲しいものだと思う。いやぁ、今後1年かけて作品が届くということだが、どこに締まっておけばいいのか本当に困る・・・

カルチャーショック・マレーシア人


マレーシアいう国は名前は知っていても、意外にどういう国なのかというのを知っている人は少ないと思う。東南アジアに存在する国であり、ボルネオ島のジャングルのようなところはフォーカスとして当たっているのだが、マレー半島に関しては良く分からない。もちろん、マレーシアに住んでいる人のことなんかまるっきり日本に伝わってこないし、周りにマレーシア人というのを見たことが無いのも事実。しかし、シンガポールに接する国であり、シンガポールと元々は同じ国であったことは知っていても、マレーシアのことをほとんど知らないことを最近知った。

マレーシアに関する本は本当に少ない。本屋に行って見ると、本当に少ないことが分かる。何も資源が無いシンガポールは観光地化に成功したためか、シンガポールのガイドやシンガポールに旅行した旅行記の本は存在する。だいたいがツマラナイ内容になっているのは仕方が無いとしても、出版されているということは、それだけ一般日本人には注目している人が居るから出版して売れているのであると思う。ところがマレーシアに関する書物は、地球の歩き方のような通常ガイドブック以外はほとんど見たことが無い。

今回紹介している本は、マレーシアに移り住んだイギリス人が、マレーシアに住んでみて接することで理解したマレーシアの生活・文化・風習・政治・制度などについてまとめた本である。マレーシアは人種の坩堝であるため、マレーシア人が書くと、どうしても出身母体の人種からみた国家観を書いてしまうため、偏った見方で自分の国を述べてしまうことになるために、本当にそうなのかな-と思うのだが、マレーシアとは全く関係ない人が第三者の目で書いた本なので、ある程度は公平に目で眺めることができる。しかし、先に言っておくと、今回の本もイギリス人が書いているために、どうしてもイギリス国教会の眼から見た、つまりキリスト教徒としての人間から見たマレーシアという国を見ているため、ある程度キリスト教徒の感覚でのモノの味方をどう捕らえるかという問題は有る。しかし、その宗教的な側面を除けは、結構公平にものを見ているなという気がした。

マレーシアははっきり言ってイスラム国家である。そのイスラム国家に、マレー人、中国系、インド系が混在して住んでいる。マジョリティはイスラム教徒のマレー人であるため、マレー人の風習がこの国を形成しているのは当然である。しかし、経済を握っているのは中国系の人間であることは言うまでも無い。著者はマジョリティのマレー人の文化を中心に述べているため、よく知らないイスラムの文化も知ることができる。かつ、著者がマレーシアに移り住んでから感じたことなので、マレーシアで生活するための知恵や住居に関すること、それと隣近所のマレーシア人との間で考えておかねばならないことが記載されているので、生活しようとする人にとっても有益な情報だと思う。

観光客にとって有益な、どこの店は美味いとか、どこの店で買物をしたほうがいいというような情報は皆無である。そんなのは地球の歩き方のようなもっと特化したガイドブックを見ればいいのであって、マレーシア全体を総括してマレーシアとはこういう国であるというのを紹介しているため、どうしても狭い地域の詳細情報を記載するまでは紙面のスペース上無理なのだと思う。ただ、これを見て分かったのは、地方に行けばいくほどイスラム色強くなるため、仏教やキリスト教の世界にいる人間から見ると「なんじゃ、それ?」というような事象に出くわすことが多いだろうという警告は、十分に読む価値はあると思う。知っているのと知らないでいるのでは、だいぶ生活や旅行をする際に対応が違うからだ。

著者のいい所は、自分がマレーシアで感じたことを並べ、それに対して良し悪しと判断していないことである。郷に入れば郷に従えであり、当地の風習や文化は当地であるために生まれてそれが形成されているわけだから、それがダメということは他人種が否定することは許されないし、してはいけないことであることを良く分かっている。本人はキリスト教徒であるため、キリスト教徒から見たイスラムの世界とマレーの文化については、だいぶなれるのに苦労したのだとおもうのだが、その苦労に関して「どうやったら克服できるか」とか「こういうモノの味方をすれば気が楽になる」というような自身の体験をベースに記載しているので、マレーシア人が読んでも違和感や嫌悪感は出てこないだろう。

マレーシアに今後は旅行としていく人も多くなると思うのだが、ショッピングばかりに眼が行くのではなく、こういう文化的な要素を持って旅行をするともっと楽しくなると思うし、現地にせっかく行くのであれば体験して欲しいと思うし、その際の参考資料として事前に本著を読むのはいいと思う。

マレーシア人 (カルチャーショック)
Heidi Munan (原著), 増永 豪男 (翻訳)
出版社: 河出書房新社
出版日: 1998年4月20日

アジア新聞屋台村

よくぞここまで変な人たちに囲まれた生活ができるなーと、羨ましく思う人をたまに見受ける。そういう人は、本人にももちろん他人を惹きつける魅力があるからこそ、磁石のように勝手に他人が寄ってくるということもあるのだろうが、それだけでは集められるわけがなく、寄り集まってくる奇人変人凡人から、奇人や変人を嗅ぎ分ける能力があってからこそ、選ばれた人間が「変人」の称号を得て、あえてその当人の知り合いの中で特別な存在になりえるのだと思う。

著者・高野秀行はまさしくそんな変人を嗅ぎ分ける特殊能力を持った人なのだと思う。本人も「誰もしたことが無いことをやってみたい」という根っからの冒険家であるため、他の人から見れば、いい歳したのに、ちょっと落ち着けよーっと思われることには憤慨しつつも、自分が楽しければ人生は良いのだという持ち主であるため、ちょっと変わった人でもある。そんな変わった人でも、さらに上を行く変人だと認めさせるような人が周りに出現すると言う事は、著者にとってはとても刺激的な人生をさらに上塗りしてくれるいい要素を発見したとして興奮したに違いない。

本著「アジア屋台新聞村」は、実際に起こった日々の事実を単なる綴ったノンフィクションドキュメンタリーであるが、高野のほかの本に出てくるようなどこかの海外の都市での出来事ではなく、場所が東京で起こった事実であるというのが不思議だ。まだまだ東京にもこれほどの奇人変人が集まる場所が残っているというのがとても不思議だった。彼がひょんなところから、新大久保のコリアンタウンに存在する在日外国人向けの新聞を発行している新聞社に勤務することから話がめちゃくちゃになってくる。

この新聞社で働いているひとたち、つまり登場人物たちが個性豊かなのである。新聞社の社長は編集・発行という作業が基本的にどのように行なうべきものかという基礎がなく新聞発行をしている人で、いかに他人から金を集めることにしか興味を持っていない典型的な台湾人女性。新聞発行をしている対象言語が、英語というメジャー言語ではなく、タイ語、ビルマ語、インドネシア語、台湾人向け中国語と、ちょっと特殊な言語での発行ばかりを行なっている。その言語をこの社長が全部堪能かというと全然そうではなく、彼女の母国である台湾中国語しか読めない。その他の言語は、在日のその言語を母国語としているボランティアによって作られている。それもほとんどが、ネットに掲載されているようなネタをそのまま現地語で取り寄せて切り貼りしているような新聞なのであり、新聞の記事を選んでいるのが、ボランティアで雇われている、インドネシア人、ビルマ人、タイ人なのである。それでもまともに新聞発行しているのは韓国人の女性が記事推敲と発行の手助けを生真面目にやってくれているところに新聞としてのまともな活動が出来ているのである。

その各人種からの混在の集団も、多数の人がやっているわけではなく、1言語1人で担当しているというから凄い。よくよく見ると、このマイナー言語を主とした新聞発行の理由は、マイナーであればあるほど広告が取れやすいからなのだそうだ。いちおう東京をちゅうしんとして各都市に海外からやってきて、日本で商売をしている各国の人が居る。その人たち同士の情報交流ということと、そのコミュニティに参加したい日本人との間は新聞を介して知り合いを作らせるというのに役立っており、その宣伝として各会社から広告費を徴収できる読んだ台湾人社長の読みは当たっているのだ。それに共感して「これはおもしろい」と思い、刺激を求めるのに躍起になっていたところに飛び込んだ高野はネタ探しとしていいものを拾ったのではないかとおもった。

詳しい話は本を読んでみればわかるが、一気に読んでしまえるほど文章に勢いがあるし、まだまだ変な人たちが出てくるのではないか?とわくわくさせてくれるような文章だから、楽しくなる。もっと多くの人に読まれてもいいと思うのだが、こういう書物は、ある種の変人たちにしかやはり共感しないのかもしれない。平平凡凡に生活している人たちにとっては、そんな不安定で怪しいところに乗り込んでいくなんて、とても勇気が無いとおもうかもしれない。ただ、海外に行っているわけでもなんでもないのに、海外に居るのと同じようなドタバタ劇を体験できるなんて、NOVAなんかにいくよりよほど面白いのではないかと思う。あとこの本を見て思ったのは、日本は、結構たくさんの国の出身の人たちが住んでいるということと、その人たちのコミュニティに対して、普通の日本人はほとんど無関心でしかないということ、言い換えれば、同じ日本の中に居るにもかかわらず、あまり日本人集団と外国人集団の交流というのを密にしていないということなのだということが良く分かった。マイノリティたちはマイノリティたちで団結して、いかに自分たちの生活を廻していくかということを考えているということだ。

日本で生活している外国人ほど、バイタリティ溢れて活動している人たちは居ないと思う。日本人はちょっと最近自信を無くしている人が多いのか、普通に(普通ってなによーっとおもうが)生活していたいとか、新しいことに挑戦したいという気が起こらないとか、文句ばかり言っていて自然に生活向上できることを望んでいるとか、高望みばかりしている人が多いと思う。文句を言うなら動けと、彼らを見ていると、文句ばかりを言っている日本人には言いたくなる。金のためでも、刺激のためでもなんでもいいのだが、もっと前向きに人生を楽しもうと眼を向けるというのが、本来の人間らしさなのではないかとおもう。

良い刺激をもらえた本を読んだなとおもう。

アジア新聞屋台村 (単行本)
高野 秀行 (著)
集英社 出版
出版日: 2006/06

千年女王

「銀河鉄道999」や「宇宙戦艦ヤマト」を書いた松本零士の漫画は子供には理解するにはなかなか難しいところだと思うのだが、それでも小さいころにはテレビの再放送や映画でその映像をみて楽しんだ記憶がある。特に銀河鉄道999は、セリフの意味はわからなくても、映像や話の流れが面白かったから、見入っていたような気がするし、大人になっても改めて銀河鉄道999の漫画を読んだところで、これがまた面白かったのだ。

それでまたこれも小さいときの記憶として映画だったかをみたとおもうのだが、同じ松本零士が作った漫画の映画として「1000年女王」というのがあったことを頭の片隅にあったのだが、映画を観たはずなのに、その内容を全く覚えていない状態で今までいた。どこかで1000年女王の漫画を持っている人がいたり、見る機会があったら絶対に見てみたいとおもっていたのだが、これまで見たり読んだりする機会が全く無かった。よく考えたら、松本零士の漫画として代表的なものをいえといわれた場合、1000年女王の名前を出す人はどの程度いるのか不明である。

そんな1000年女王を見つけたので早速買ってみた。読んでみて分かったことは、実際に勝手に覚えていた内容と全く異なったという事実である。1000年女王というのがこの地球を1000年間治めていたという事実は合っていたのだが、それが何のために行なっていたのか、または母星のラーメタルのこともすっかり忘れていた。途中から話が急展開したりするところや、後々まで読まないと話の意味がわからないところについては、松本零士の漫画にはありがちなストーリー展開になっているのはわかっていたが、これほどまで1回読んだだけでは、頭に入りにくい漫画だったのかというのを改めて知った。それを長くて2時間程度の映画にどのように治めていたのかというのを今から考えるととても不思議であるる。しかし、もう一度映画を観たいという気にはなぜかならない。

1000年女王[1][2][3]
松本 零士 著
小学館文庫
1995年9月1日 出版

隠れキリシタン


長崎に以前行ったときに、街の中心地に大きな中華街があるため、長崎はどちらかというと道教のような中国式の宗教が根強いところかと思っていたのだが、実はそうではなく、歴史的にはキリスト教徒が多いところなのであるというのが、歴史の勉強をよくしていれば後で分かることだと思う。天草四郎の話だったり、キリシタン大名が登場したりを考えれば、長崎を中心とした九州北部が、キリスト教徒の多い場所だということに気付く。

徳川幕府の時代にキリスト教弾圧を中心としたキリスト教禁止の政策の下、いかに隠れキリシタンとして信仰を続けてきたのかとか、明治時代になって宗教の自由が保証されたあとの隠れキリシタンの動きというのは、実はよくわかってなかった。マカオに行った際に、なぜかマカオの教会に、日本人の殉教者を称えるような絵画を見つけて、なぜマカオで日本の隠れキリシタンのことがあるのかという疑問に思ったことがあった。キリスト教禁止のもとでも、信仰は止めないで続けていたことの証拠だろう。

そんな隠れキリシタンについての、キリスト教禁止時代、キリスト教解禁時代と現代にわけて、述べているし、隠れキリシタンについての定義についても厳密に分けて述べているところが、頭の整理に良い。

もはや長崎県にしか存在しない隠れキリシタンというのものに対して、世界の研究者が隠れキリシタンに興味や好奇心を駆り立てる理由として「信仰の自由が認められているのにもかかわらず、なぜ今日にいたるまでカトリックに戻ることなくその信仰を守っているのだろうか?」という素朴な根源的な疑問によるものだと著者は述べており、さらにその疑問は「隠れキリシタンは未だに”隠れてキリスト教を守りつづけている”という幻想的にロマンチックなイメージによって生み出されている」というようにばっさりと事実を斬っている。そして、その結論として「現代の隠れキリシタンは、もはや隠れてもいなければキリシタンでもない。日本の伝統的な宗教風土の中で年月をかけて熟成され、土着の人々の生きた信仰生活の中で完全に溶け込んだ、典型的な日本の民族宗教の一つである」と述べているところに尽きると思う。

最初はポルトガル人による指導があったのだろうが、ポルトガル人と言う師匠がいなくなったあとの隠れキリシタンは、伝え聞いた内容を、耳と口でしか伝えてこなかったために、本当のカトリックで行っている数々の儀式が、時間とともにだんだん日本風になってきて、唱えている文言についても、原文をどこまで忠実に再現しているかわからないが、結局は口承でしか伝えてこなかったために、もはや誰も原文の意味が分からなくなっているということがなんとも痛々しい。また、本当のカトリックの場合は、聖人は既に決まったものがあり、それを信仰に使うのはOKだが、新たに聖人登録するには、ローマ法王の許可が無いと無理なのである。しかし、隠れキリシタンのなかでは、日本の宗教や道教と同じように、身近な人で殉教したひとたひはすべて聖人のひとりとして崇めるようになり、「〇〇様」として祀られているのも面白い。そのときの聖人の名前が「さんじゅわん様」とか「ガスパル様」とか、いちおうヨーロッパキリスト教風の名前になっているのが笑える。もちろん、隠れキリシタンの間では、キリスト教名というのを持つらしく、さらにカトリックと同じように「洗礼」の儀式があるらしい。

しかしながら、現代の隠れキリシタンの世界では残念ながら、220年の禁断時代を乗り切ったあとの隠れキリシタン的な宗教を継承するひとが少なくなってきており、隠れキリシタンとして常に行ってきた儀式についても、よほどじゃ無い限り、もはや行われることがないらしい。これはもう宗教として継承するのを諦めているということを意味するではないか。そしておもしろいことに、隠れキリシタンとして継承してきたものが、地域によって少しずつ異なった形として継承してきたのも面白い。これも全体を統括する教区という考え方がないことと、ヨーロッパ人が明治以降にくるまで、独自で発展した文化を継承しているためなのだといえる。隣の町のキリシタン文化は、実はちょっと違った・・・というのが、時代とともに差が出てきたために、同じような教義のはずなのに、違った宗教のようになってしまった歴史がある。

隠れキリシタンがキリスト像やマリア像のような代わりに拝みつづけるものは、なにしろ「隠れ」として使っていたものなので、そんじゃそこらに普通に転がっているわけじゃない。だから、飾っている掛け軸や像や、または西洋から持ってきたメダルやイコンの片割れみたいなものを保持しているところの家は、その周辺の隠れキリシタンにとっては一種の教会と同じ扱いになっていて、何かのイベントのときには集まるという風習が残っているのが面白い。また、その集落で宗教的に一番偉い立場にいる人を「オヤジ役」というらしいが、そのオヤジが正月から誰にも見られないように沐浴をし、そして何も拭かずに隠れキリシタンとして宗教活動をするための特別の服を着なければならないという、「穢れ」をなんとかして避けるというのも、キリスト教やユダヤ教本来の宗教的活動と似ているところも面白い。

こういう隠れキリシタンのことをまとめている本は見たことが無いので、本当にためになる本だとおもった。宗教本としてみるのではなく、日本の歴史の一部分を知るという意味で大変勉強になる本だと言えよう。また出版したところが、長崎新聞社という、地元の新聞社だというところにも注目することだろう。他に長崎新聞社から発行された出版は、本の末を見ればなかなか面白そうな本が刊行していることも分かった。郷土資料として読むとためになりそうなものは買ってみたいと思うが、研究者ではないので、そんな高価な書物に手を出すのは無理だ。

隠れキリシタン
(オラショ-魂の通奏低音)
宮崎賢太郎 著
長崎新聞社
2001年10月19日出版

沖縄・奄美「島旅」紀行


沖縄の各諸島と奄美諸島は、はっきりいって日本のなかにある外国そのものだ。日本固有の島でありながら、日本本土の歴史と文化が全く異なるところに、多くの観光客が魅了されているのだろうと思う。ところが沖縄や奄美に関する文化的な書物というのは、ほとんど見たことが無い。ほとんどの書物は、どこどこの店が美味いとか、観光名所に関する記述は書いているが、沖縄や奄美が持つ独特の雰囲気がなぜ形成されたのかとか、地元の人たちが生活するうえで考えていることなどは、皆無に等しいのだと思う。

本著「沖縄・奄美《島旅》紀行」は、離島に関するジャーナリストでもある著者が沖縄と奄美の各島について、観光ガイドとは異なる視点で紹介しているところはありがたい。観光ガイドとしてこの本を読んでも、地図も適当だし、おいしい店を列挙しているわけでもないので、使い物にならない事は先に言っておきたい。

そもそも、題名に「沖縄・奄美」と2つの列島を列挙していること自体がなぜ?とおもわれるとおもうが、それは奄美が鹿児島県に現在は属しているためであり、諸島だけを本当は紹介したいと考えたいときには、この県の問題が邪魔になる。琉球王国時代には奄美も含めて実は琉球だったのに、薩摩藩の支配に伴い、奄美が薩摩藩に割譲されたことから、いちいち沖縄・奄美なんていう面倒くさい表記になったことは言うまでも無い。

紹介されている内容として、一番遠い与那国島からというところもなかなか面白い。本当なら沖縄本島から紹介したくなるのだが、沖縄本島ほど他のガイドでなんども紹介されているものはないわけで、そんなところにフォーカスを当てて、ページ数を稼ぐより、ほとんど表に出てこないような島をできるだけ紹介しているところが良い。

現地に実際に足を運んで、現地の人の声を紹介したり、現地の人なら当然であるということを紹介しているところも、読み物としては面白い。記事にはカラー写真が全くないが、いくつかの白黒写真が掲載されている。ただ、それだけでも行きたくなるのだが、文章の書き方が、まるで自分がその場所にいて、実際の光景を見ているような状態を想像させてくれる内容なので、どこの島にも行ってみたいという思いを興させてくれる。

この中で行ってみたいなぁーとおもった個人的な感想の島は、次のとおりだ。

・池間島(宮古島から橋で繋がっている)
・奄美大島
・加計呂間島
・竹富島

どこの島も、島名だけ聞くと聞いた事があるというところなのだろうが、奄美大島以外はどこも行くのにとても面倒くさいため、国内旅行としていったとしても、結構日数と費用がないと気軽には行けない場所だと思う。それが面倒なので、海外に行くという人も多いのだと思うのだが、本当なら、同じ日本国内なので、日本のこのような離島を知ってこそ、日本を知ったと言えるのではないだろうか。日本もまだまだ捨てたもんじゃないといえる場所が、このような島にはまだあるということだ。

時間と金をすっかり都会に忘れて、のんびりと上記の島で気ままに暮らせるほどの余裕ができれば、一度は訪れてみたいところだと思う。そのときには、一般ガイドと一緒にこの本を持っていき、著者と同じような生活と視点で島を見てみたいと思う。

どの島も特にこれといった名物があったりするわけでもない。そこで生活している人・モノ・風景すべてが観光名物となるようなものであるため、何かを探すためにこれらの島にいくのとは違う考え方で島への訪問をするべきである。どうしても、南の島だと海に入ってスキューバをしたり海水浴をしたりするのも1つだが、そういうのも止めて、ぼーっとするのもよし、島の人と1日会話をしたりするのもよしだとおもう。

ただ、なかなか島の人たちの懐に入り込むのは難しいだろう。いくら南の島のひとたちは、フレンドリーだといっても、一元さんを快く迎えるかどうかは、その人の器量と訪問者の考え方次第だと思う。

池間島なんて、何もないところの代表みたいなものだが、その島を囲む海の透明度はとても高いため、この海を見ているだけでいいじゃないかと思うだろう。それを見ながらコーヒーを飲んで、ぽかーんとしてみたいところだ。

奄美大島は、言語的にも文化的にも沖縄とは違う文化を持っているため、前からいってみたいところであった。ただ、あまり奄美について書かれている本を見たことが無いので、今回の本を皮切りに、少し奄美について研究したいと思う。そういうきっかけを作ってくれたこの本に感謝だ。

加計呂間島と竹富島については、いろいろなメディアに取り上げられているので、毛説明は要らないだろう。あと、ちょっと興味があるのは、南大東島だ。だいたいどうやっていけばいいのかわからないし、そんなところに住みついた経緯についても面白い。沖縄のこんなところと小笠原諸島の方言がほとんど同じという事実も面白い。

ただ、何度も言うが、こういう離島に行くには金が本当にかかる。金がかかるから、観光客がきてもたくさんではないので、島のよさが残っているのだろう。

沖縄・奄美《島旅》紀行
斉藤 潤 著
光文社新書
2005年7月1日出版

日本人が知らない「日本の姿」

不快に思う書物というのは滅多に出会うものではないし、不快に思うのは、読者の環境や思想と書物に書かれている内容にあまりにも乖離があり、その内容が読者の神経に触るようなことの場合に多いにある出来ことだとおもう。同族の人に指摘されることは、大いに勉強させられることなのだと思うが、自称・同族と言いつつも、同族であることを不愉快に思うようなことを書かれているようなことを言われると、これほどむかつくことは無い。そういう書籍に久しぶりに出会ってしまった。

胡暁子というタイガーパームの胡財閥に嫁いだ女が書いた書籍「日本人が知らない『日本の姿』」というのが、副題として「シンガポール財閥総帥夫人からの警鐘」なんて書いていること自体が、もう不愉快だ。なぜ不愉快かというと、そこまで肩書きを全面的に出さないと己の主張がまともな事象であると主張できないのかというのが、ありありと見えてきてしまったからである。読む前からなんとなく不愉快さは伝わってきたのだが、どんだけ不愉快なものが掲載されているのか、まともな値段を払ってまで読みたいとは思っていなかったため、いつものようにebookoffで中古本が売られるまで待っていようとおもっていたら、出てきた、出てきた。元の価格が1500円だったが、売れないのか105円で売り出しを発見。100円くらいなら途中で読むのを止めてもどうでもいいやという気持ちで購入。

ただ全面的にこの本を否定するつもりは無い。ただ言いたいのは不快だということだけ。日本人が海外に行って行動する際に基本的に身につけておくべき事象やマナーについては、一般的なことを言っていると思うし、むしろ憂いすべき点を指摘しているのはありがたいと思う。もちろん、海外に出る前に日本人である上で、日本文化、日本の歴史、日本の基礎知識を持っておらずに海外に出て、海外の人に接すること自体が馬鹿だというのは同感である。しかし、不快に思うのは、視点が中国人の眼でしかモノを見ていない点であろう。現地の中国人と結婚し、中国人が多いシンガポールを生活と事業の中心拠点としているから中国人の考え方が身につくのは理解するとしても、その中国人の視点でしか物事を見ていないこと自体が腹立たしい。つまり、中国人の考え方がすべて正しく、それに合致しない、または中国人が不快に思うことはすべて世界ではダメだというように主張していること自体が納得いかないのである。

シンガポールは当時のマライ連邦から「おまえら中国人が多いので、マライ連邦の中に入れると、なにかと不便だから邪魔」として退けものにされ、余儀なくマレーから独立しなければならかった歴史がある。そこで何も資源を保有していないシンガポールが裸一貫で頑張ったことは歴史的に認める事実であるが、その頑張ったことが中国人が偉いから成功したのだというような主張をされると全く可笑しな話だ。東南アジアは経済的には現地の民族より、中国南部から移民として渡った華僑が牛耳っているのは事実である。マレーシアでもフィリピンでもタイでもインドネシアでもそうである。中国人は金に対する執着心で、経済的にのし上がってきたという事実があるため、各国で経済をコントロールしているくらい華僑の勢力が強い。それゆえ、各国の主要民族は中国人のそういう金持ち主義と金を自分達だけ儲けて、他民族に還元しないという性格に対して嫌気があるのも事実で、それが東南アジアの基本的民族間の紛争に繋がっているのを物語っている。だいたいの問題の元凶は中国人が起こした行動に反発するために、地元民族が立ち上がって闘争を起こしていることを、この著者はどれだけ知っているのだろうか?

シンガポールの場合、首相や元首相とその側近の親族だけによる同族企業が、国の主要機関を牛耳っているため、誰も首相とその関係者に対して文句が言えない。情報や報道についてもすべてシンガポール政府が制御しているために、シンガポール政府および同族企業に対して批判的な記事はほとんど見ることが出来ない。同族企業というのは、首相の親戚類は当然のこと、首相に頭をさげて懐に入っている人間達も同様だ。タイガーバームを作った胡文虎は客家系の中国人であり、同じ客家のリー・クワン・ユー現上級相とは親しい関係である。中国人の場合は、同族・同地方出身者たちは互いに協力する幋の繋がりが強い。香港拠点からシンガポールに拠点を移したこともリークワンユーに関係するくらい、もう政府の中心人物になっていた。

そういうような環境の一族に嫁いだ人間が、中国人の考え方で、東南アジア全体および世界全体を述べること自体が変な話であり、「元」日本人だったから主張していますなんていうような言い方自体が気に食わない。すっかりシンガポールの国籍を取り、シンガポールでの肩書きを得ることに注意を注いでいる人間が、世界で活躍しようとしている日本人全体を述べること自体が変である。中国人的考え方がいかに世界では嫌がられているのかということをもっと知ったうえで、自身の主張を見直してもらいたい。

著者の中で、「会社の中で、たまに『あのお馬鹿チャンは・・・』と使っちゃうのは、愛情を注いで言っているだけのこと」なんて弁解をしているが、いくら会社の社長だからといっても、面子の社会である中国人社会にとって、本人の目の前で「馬鹿」と罵ることは、いくら愛情をこめているとはいえ、中国人の自尊心を傷つけることになるため、あなたはどれだけ長い間中国人社会の中で生活をしていて、それをわかって居ないのだ?と逆に問いただしたくなった。社員は社長の一言で、いつ首切りになるのか分からない。会社の中では社長が一番偉いわけで、誰も社員は社長に対して「社長、それは良くない」と言えるわけがない。もっというと、彼女の会社は政府と直結している会社でもあるわけで、そんなところで憤慨的な主張をしたところで、「嫌だったら辞めたら?」と逆提案されるだけがオチであるため、誰も文句が言えないのだろう。すっかり殿様状態になっていること自体を著者は全くわかっていない。

そんなヤツが日本人はこうするべきだなんていうのは不思議だ。また、全面的に賛成だというようなことが言える日本人が居たら、きっと頭がおかしいに決まっている。

日本人が知らない「日本の姿」
胡 暁子 著
小学館
2004年2月1日出版

ナチスの発明


ナチスという言葉に対して不快感を持つ人は多いのだが、ナチスが行った功績は評価するべき点も実は多いことを知っている人は本当に少ないと思う。ナチスが行ったことはすべて悪であるということを常識と思っている人は、よほど知識が不足しているのか、それとも戦勝国からの一方的な怪しい情報に惑わされてそれを鵜呑みにしている人か、また鵜呑みにした人が股聞きで書いたのを信じている人なのだと思う。日本での報道も大体の場合は、この怪しい情報に振り回されている人が大半なのだと思うし、ナチスは良かったなんていうと、変人か精神病扱いされるのがオチである。

じゃ、ナチスが実施したことで称えるべき事象は一体なんなのか?と問われて、いろいろな事象やモノを列挙した際に、きっと多くの人は、「へぇ・・・」と思うに違いない。悪いことばかりではないこともわかるはずだ。

ナチスの世界的宣伝としてベルリンオリンピックが使われたことはとても有名なのだが、その宣伝を世界中に知らせるために使った技法が、実は現在でも継続されて居るなんていうのを知ったら、卒倒する人が多いのではないだろうか?その代表的なものは、オリンピックの開催には盛り上げるためのイベントとして欠かせないのが「聖火リレー」なのだが、あれを最初に行ったのはベルリンオリンピックで、ナチスが仕組んだイベントの1つである。グーベルタン伯爵が最初に近代オリンピックが行われたときから聖火リレーがあるなんて思っている人が多いのだが、それは大間違い。第2次世界大戦後でも「あれは良いイベントだ」と採用されているのが今でも継承されているのである。さらに記録映画としてベルリンオリンピックの映画がリーフェンシュタインによって撮影されたが、これも現代でも続けられていて、そのイベントを事実として映像に残すというのはドキュメンタリーとしての要素でも現在のテレビ番組としても採用されている。それまで映画というのはドラマか脚本で書かれたものを撮影していたのだが、何がどうなるのかわからないドキュメンタリとして撮影されたのが、この映画が最初。のちにリーフェンシュタインはナチ親派として色々糾弾されたが、彼女にとっては映画をとるための手段として利用していただけで、ナチ万歳のために撮ったつもりはないといっているのは納得だ。

野外コンサートとしては現在では当然のように使われている音響設備「PAシステム」も実はナチスが考えたものであった。PAは大衆演説の略であり、もともとはニュルンベルク党大会でのヒトラーの演説を会場の隅々にまで聞こえるようにしたのがこのPAシステムである。野外では音割れなくコンサートが聞けるのもナチスのおかげだ。

高速道路のアウトバーンはドイツの代表的な人工建築物だが、これもナチスのおかげ。もともとは失業対策として実施したものであるが、それまでドイツでは道路設備が満足するものではなかったかというとそうではない。規格がまちまちであったことが不便さをつくり、さらに高速道路には適していなかったのである。規格を統一し、高速運転に伴う人間心理を追究から適度なカーブを作って眠気防止に役立てたり、高速道路をまたぐような道路は陸橋型にしたり、中央分離帯を作ったり、信号は無しにしたり、適度な感覚でサービスエリアを作ったりしたのはナチスのおかげである。現代でも、失業対策や景気回復手段としての内需拡大手段としてインフラ設備の充実というのをどこの国でも行っているが、これは実はナチスが初めて行ったことである。

通信・放送の分野でもナチスドイツは、最先端の技術を持っていた。一般向けテレビ放送を実施したのはナチスが世界ではじめてだし、いまでは普通になっているテレビ電話なんていうのもナチスがはじめて行った事業である。更に、北朝鮮ではいまも継承されて続けているが、ナチスは国民に党の活動を知って貰うためという意味で、国民ラジオという安価なラジオを提供した。他のチャンネルは廻して外国放送がきけるわけではないのだが、それでも放送を聞くというのは国民にとっては高嶺の花だったのを身近にしたのは有意義な事業だった。

他にも現在にも使われる石油に代わるエネルギーとしてのエタノールガソリンの発明や、軽くて丈夫なジュラルミンの発明、テープレコーダの発明、化学繊維による衣服の発明、垂直浮揚のできるヘリコプターの発明、電子顕微鏡の発明、リニアモーターカーの発明、ポルシェ博士の発掘とフォルクスワーゲンの開発、労働者への長期休暇と格安パック旅行の実施、育児政策とガン撲滅運動の実施、源泉徴収や扶養手当の実施などなど。現在でも使われているじゃないかーという施策のほとんどはナチスによるものだった。それまで他のヨーロッパ諸国が全くしていなかったというのが嘘みたいな話であるが、本当なのだ。

ナチスがやった偉業について興味があるひとは、この本を一読することをお勧めしたい。

ナチスの発明
武田知弘 著
彩図社
2006年12月25日 出版