2008/06/21

やわらかアラブ学


アラブというと、乱暴とかコーランとか、あんまり馴染みも無く良い印象が無いのは何故なのだろうか。日本があまりアラブの世界と接する機会が一般にはなかったからだということもあろう。シンガポールやマレーシア、そして福建省の一部に行くと、アラブ人が住んでいるので、そこで接することはできるが、日本では本当に難しい。シンガポールに何度も行ったことがあるけれど、それでもアラブ人に会うのは稀で、イスラム教徒であるマレー人からアラブの文化を知ると言う事は出来る。しかし、マレー人のイスラム文化とアラブのイスラム文化は同じなのかどうかは疑問だ。

「ブラジル入門学」と同じように、たいていの日本人がアラブのこれって一体何ナノ?と思うようなことがずばり全部書かれているので本当にためになる。最近はイスラム世界の金融について書かれた本はあっても、文化に付いてかかれた本は、イスラム教に特化した内容のものばかりしか見受けられないので、どうしても宗教的なことを知らないと頭に入らないのであるが、この本はイスラム教を知らなくてもアラブの世界を垣間見ることができる。

俗っぽい内容から宗教に密着した内容まで盛り込んでいるので、イスラム世界で住む場合には参考になるのであろう。最も印象的だったのは「イン・シャー・アッラー(もし、アッラーがお望みならば)」という言葉だった。誰かに何かを頼んだときに返答として帰ってくるときに必ずといっていいほど、末尾につけられる言葉である。しかし、これは相手の期待に応えられないための前もった弁解の言葉だということを知らないで、「期待通りにします」と受け取った場合には大抵の日本人は怒り心頭になるだろう。良いかえれば、だいたいこういうのを言ってきた場合には、期待通りにはまず結果が得られないということを暗示していることなのだと教えてくれる。京都の言葉は日本語であって日本語ではないとよく言われるのと同じように、言語の意味をそのまま理解すると、まったく違う意味に取りかねないということの一例だ。こういう例が随時見られるのは、イスラム・アラブに未体験の日本人にとってはありがたいことだ。

最近はドバイが人気なのだが、それはリゾート地という点で人気になっているのであって、アラブ文化が人気になってきたという意味では全く無い。もっとアラブが身近になれば日本人のアラブ旅行がもっとニーズが高くなるのだが、これといってアラブの文化も知らないし、買い物大好き日本人としても買い物をしたいという意欲がアラブにはまだ無い。ドバイがいくら買物天国になったからといって、それよりも近いところにある香港や台湾に行ったほうが時間も便利だからというのが理由だし、香港よりも半分以下で買えるというのであれば、もっと日本人が行くと思う。しかし、そういう日本人も買物のためにいくだけであって、アラブを知るために行くというひとはほとんど居ないというところが悲しい。もっと文化的なところを知った上で渡航したほうがいいのは分かりきっているが、あまりその勉強をしたくないというのもあるのだろうし、不勉強さや無知を相手に知られて無くないという見栄があるのかもしれない。


やわらかアラブ学
田中 四郎 (著)
新潮選書
ISBN-13: 978-4106004261

ブラジル学入門


経済著しいBRICsの一端を担っているブラジルなのだが、日本の真裏にある国で、昔からたくさんの日本人が移民として渡っているのは知っているのだが、それ以外は、サンバとアマゾンの国というくらいしか全く情報も興味もなかったところである。最近では、サッカーブームのこともあるし、ちょっと前のスポーツではF1のこともあるので、スポーツ面ではブラジルは「強い」というイメージがあるが、昔からそんなに金持ちでもない国なのに、なぜスポーツが強いのだろうという疑問はあった。あとは、サッカーの選手を見ていると、白人も居れば黒人も居れば、もちろんインディオも居れば、なんだか人種の坩堝のところなのだなーということは知っていたが、文化的には全然想像が出来ない。

そんな何故・何?というようなブラジルの疑問を解消してくれるのが、この「ブラジル学入門」だった。分かりやすい文章でブラジルの持つ民族性を端的に書いているので、これからブラジルに付いて勉強をしたいと思っている人たちにとっては分かりやすいだろう。これを知った上で、現在経済成長しているブラジルというのを見つめてみると、納得するところはたくさんある。

この本は長年ブラジルに住んでいて、ブラジルのことであれば一番良く知っている人がかいているので、すべての情報が本物だと考えていい。それによると、基本的にブラジル人は働かない民族であるということらしい。その理由は、広い平地には、降水量が多いために食べものがなんでも揃っていて、下手に働かなくても食べものが簡単に入るからなのだそうだ。そこへポルトガル人が植民地化しようとやってきたときに、あまりにもプランテーションとして働かない人たちばかりだったので、黒人をアフリカから連れてきて、その人たちに働かさせたというのが、現在のブラジルの黒人のルーツになるということを知って、なるほどーと分かった。しかしポルトガルはアフリカに植民地を持っていなかったために、フランス人やイギリス人から黒人を買っていたことは、なかなか生々しい情報として驚く。そんなポルトガルも、現在では西ヨーロッパ人とみなされるが、基本的にフランス人から見て「ピレネーを越えるとアフリカだ」と言っているように、スペインとポルトガルは実はヨーロッパの生粋な文化とはちょっと異なる。長いことアラブの影響があったため、ヨーロッパ文化とアラブ文化を融合した気質を持っている人たちなのだということを知る。そのままブラジルにポルトガルを持っていったために、いろいろな弊害が出てきたということもこの本を見ればよく分かる。

さらに日本人移民についての言及も書かれているので興味が湧く。はっきりいえば、移民でブラジルに渡った人たちは、表向き「自主的に移民として夢を見て移住した」となっているが、実際にはアジア人の奴隷貿易だったということなのだそうだ。ブラジルにおける日本人は勤勉であり真面目だったため、当時のブラジルを収めていた政府には大歓迎されたのだが、それを嫌がったのが働かないブラジル原住民だったというのが笑える。第二次世界大戦のときに、特にアメリカでは排日運動が高まって、日本人は一箇所に収容されるようなことはあったのだが、同じ連合国に入っていたブラジルでも最初は排日運動が起こっていたのだが、そこは面倒くさがりのブラジル人だったために、その排日運動も「適当」に寛容だったようで、結局誰も拘束されたというわけでもない歴史だったことを知って奥深い。

ブラジルのことは知れば知るほど、なかなか味があり、こんな国が経済成長するのがとても不思議でもある。一気に読める本でもあるのだが、何度も読み返しても楽しいと思うので、もう一度あとで読んでみたい。書かれたのは1994年と随分古いのだが、そんな簡単に民族の気質というのは変わらないので、今でもだいたいブラジル人の持つ気質や文化や風土は同じだと思って良いはずである。本来なら2800円もするものが、ブックオフだと100円で売っていたので、思わず買ってしまった本ではあるが、買って本当に良かったと思う。ただ、単行本ではなく文庫本として売り出して欲しいと思う。

ブラジル学入門
中隅哲郎(著)
無明舎出版
ISBN-13: 978-4895441261

遊牧民から見た世界史


文明とか文化というものが発達していたところというと、学校では、ヨーロッパと中国はもちろんのこと、エジプトとイラン・イラクの地域だというのを習うとおもう。そして、文化の空白地帯とでもいうべきところとして、中央アジアやアフリカが上げられることも言われる。しかし、中央アジアが一時期注目を浴びるのが、たぶん歴史の時間の中では2回出てくると思う。1回目は、漢の時代とローマの間でシルクロードが形成されたという話が出てくるところであり、2回目は、モンゴル軍がハンガリーまで攻めて行って、4つのハン国を作ったというところくらいだろう。あとは、ほとんど歴史の中に全く出てこないという記憶があった。

ところが、「いやいや、歴史を作ったのは中央アジアの国々なのだ」と主張しているのが、この本である。遊牧民が東西の文化をつないだというのであれば、それなら納得なのだが、古代中国や中世の中国は、中央アジアの遊牧民が作ったとか、特に古代中国の王朝は実は中央アジアの国々の従属だったという話を延々とかかれているのをみると、本当かなと思う。どこまで立証しているのかわからないのであるが、今まで一方的に中国文化から見た歴史しか教えられていないので、それ以外が中国を事実上制覇していたという話を聞かされて半分信じられなかった。しかしよく考えたら、軍事的には機動力のある遊牧民族が農耕民族を制圧していたのは、もちろん簡単なことだと思うし、農耕民族が遊牧民を抑えるのはなかなか難しいのも理解できる。歴史とはいつでも一方的な面から見られており、そのときの主張が多い勢力によって、歴史は必然と語られるものなのだなと理解した。
さらに中央アジアは、文化が全く無い未開の土地のように印象を植えさせたのも、これまでの教育なのだなと気がした。実際には、農耕民族の土地のように肥えた土地があるわけでもないので、一箇所に巨大な遺跡があるというわけでもないために、文化がないようにみえるが、遊牧民なので、そのときに必要な土地に国家を形成していただけで、全く文化の形跡が残っていなかったというわけでもない。さらに砂漠化していった地域であるために、遺跡を発掘するのがなかなか捗っていないだけで、真実が全く知られていないだけなのであることも理解できる。また、中国の漢字文化からみた中央アジアの国家は、すべて「野蛮人」のような名前が勝手に付けられているところも、中華思想的な国家感から付けられたものだというのは理解できるが、実際にはこれらの国家にも文字もあったし記録もあったので、本家の国から見たときには立派な名前だったりするのも理解できた。

筆者がモンゴルを中心とした中央アジアの文化に精通している人なので、主張が偏っているように思えるのは致し方ないのだが、歴史とは多方面から分析しないと、本当にわからないものだなというのが良く分かるものである。そして、中国側からばかりで物事を見ていると、何も見えなくなるというのもよく理解できた。


遊牧民から見た世界史―民族も国境もこえて
杉山 正明 (著)
日経ビジネス人文庫
ISBN-13: 978-4532191610

オウム帝国の正体


一橋文哉の作品はどれも臨場感漂う文章の書き方をするので三文小説より楽しいのだが、「オウム帝国の正体」というものも、また素晴らしい。オウムの事件というと、松本サリン事件や地下鉄サリン事件くらいしか分からず、あとは、大学や駅前で「しょうーこー、しょうーこー、しょこしょこしょーこー♪」とあほ踊りをしていた奴らを思い出すくらいであるが、それは表向きの奴らの顔で、裏ではとても汚いことをしていたのが事実だ。マハポーシャという名前くらいは聞いたことがある人は多いと思うが、オウムがアキバに作っていたパソコンショップであり、これが激安で「洗脳されるかも」と言われながらも買っていたひとを何人も知っているが、それも単なる布教のための資金集めかというと、実はそうではなく、あれは単なる隠れ蓑だったことがあとで分かる。「血のイニシエーション」や「シャクティーパット」という意味不明な儀式の名前くらいはテレビでも散々出てきたので名前は聞いていたが、なんでそんなもので洗脳されるのか皆目検討がつかなかったのであるが、儀式の前に実は麻薬を使って信者を昏睡させて行っていたことが分かると、その麻薬はどこから手に入れたものか?というのが疑問になってくる。

一橋文哉のような作家がいるから事の真相がわかるのであって、どこの報道機関も事件や話題が盛り上がっていたときには報道するが、それ以降、ほとんどなにもオウムのことが言われなくなってしまった。コメンテーターも突っ込みをしたいところだが、突っ込むと自分の命が危うくなるためになかなかいえなかったのであるということも、この本を見ればよくわかる。

というのも、オウムは単に表向き宗教団体を装っていたのだが、各国の闇社会と手を結んで、世紀末騒乱を自らの手で起こそうと勝手に思い立って動いていた集団であることが分かる。オウムが表向きに動いてくれるので、それに便乗した暴力団とさらにその暴力団に群がる政治家がとても絡みついていて、利権を全員が享受していたことが本を読めば分かりやすく書いてある。利権なしに政治家は全く動くわけが無く、政治家が何か話をし始めたと言う事は、その裏に何かがあると考えればよいというルールを示してくれたものである。北朝鮮との関係について政府が触れるようになったときが、ちょうどオウムが北朝鮮経由で麻薬を大量に日本国内に持ち込んで暴力団経由で売りさばいていたときであることもわかるし、ロシアにオウムの主力がわたって、ソ連崩壊後コントロールが効かなくなって来た、武器の密輸や第3国への密売を行っていたのもオウムである。

オウムの幹部同士の軋轢や、各人の人格やオウムでの役割というのがとても分かりやすいので、ニュースや報道で見るよりはとても理解しやすい。化学実験もロシアが絡んでいるし、国松長官襲撃事件には北朝鮮が絡んでいるから、なかなか暴力団顔負けのバイオレンス集団であったことが分かる。

そんなオウムも今では「アレフ」なんていう意味不明な名前で活動しているのだが、基本的にはロシアで組織を握っていた「あぁいえば上佑」が仕切っているので、これも何をしでかすか分からない。信者を組織に食い止めるためには、信者を何かで脅すか信じさせるしかないという発想しかないので幼稚なのだが、所詮、オウムの成り立ちだって同じだったのである。あとは、宗教団体の上部組織になれば、いくらでも金銭と人間を自由に扱うことができるという優越感が出てくるものだ。創価学会だって、立正佼成会だって、まさしく原理は同じで、一般社会ではどうしても上になれないひとが肩書き欲しさで、意味不明な団体を大きくすることでそこを仕切っていることで自己満足していったというのと同じである。特に宗教団体の場合、税金を取られないというメリットがあるために、布施でもなんでもいいが金は集まってくるし、信者を奴隷のように扱うことができる王様気分は楽しかったのではないだろうか。

これからも経済が不安定になってくると、似たような宗教団体やそれに加入する馬鹿が一杯増えてくるので、オウムが極端だったにせよ、何をしでかすのか分からない人間の行動を知る上ではこの本は大変有益だと思う。

オウム帝国の正体
一橋 文哉 (著)
新潮文庫
ISBN-13: 978-4101426235

グリコ・森永事件の真相


グリコ・森永事件というのは、事件的にも報道的にも、なかなか興味がある事件だったと記憶がある。事件が起こったタイムリーなことはあまりよく覚えていない(というか、あまり知らない)のだが、1億総国民が、自分が探偵にでもなったように新聞やテレビなどで報道されるニュースを元に犯人の割り出しを行っていたという気がする。通称「グリコ犯」とニュースの中では言われていたと思うが、その犯人達からのワープロで打たれた文章と妙に馬鹿にしたような関西弁でのコメントや要求の内容は、幼心に「変な人たちだな」としか思っていなかった。

もちろん当の被害企業の人たちから見たら、自社製品があっという間に全ての店頭から消えてしまって、その対策としてパッケージに、一度開けたら再現が出来なくなるような封をしたり、報道機関を使って安全性をアピールしたりと、それはもう努力が大変だったというのは記憶にある。しかし、いろいろな企業がターゲットになっていたことは覚えているのだが、なぜあの事件が「グリコ・森永事件」だったのかが、いまいち自分の中では分からないなーと長年ずっと思っていたのだ。確かに一番最初の事件としてグリコがターゲットになったので、事件の名前に冠としてつけられているのは分かる。しかし、森永はロッテなどのほかの菓子メーカーのあとにターゲットになったのにもかかわらず、事件名につけられているのである。事件名になっていなければ、事件当日のときんは確かにターゲットになってた企業も時間が経てば、ターゲットにされていたことさえも人間の記憶から消えるはずなのだが、こう大々的に事件名になってしまうと、グリコと森永の2社はいつまで経っても、この事件からの呪縛からは解放されないだろうと思う。

今回紹介する本は、そのモヤモヤとした事件名の真相や、もう時効になってしまったので犯人を特定しても意味が無いが、犯人探しをする際に、警察庁・各県警の当時の動きや、上層部と現場捜査官との軋轢、そして犯人達のメンバ構成やメンバの思想背景などについて、かなり突っ込んだ調査とまとめを行っている。

しかし、だいたいこういう大きな事件の際には、裏側で怪しい大きなバックがいるわけで、それに踏みこめないために事件の解明ができないというのは大いにあることだ。グリコ・森永事件も同じようで、調べれば調べるほど、政治家や海外の企業やヤクザの世界とすべてがリンクするために、うかつに手がだせなかったり、取材をしている際に逆にストークされたりするという恐ろしさがあるようだ。そのやりとりが、まるでその辺の三文小説なんかに比べると、はらはらドキドキさせられるものがあるし、臨場感をとても感じることが出来る文章と構成になっている。

事件に関わった人たちは、一方では「犯人を捕まえられなくて屈辱的」と思っている警察側と、「もう過去のことなので、そんなことは聞かないでくれ」と犯人に近い人間や事件関係上層部のひとたちのコメントが生々しく載っているのも良い。それぞれの思いがあの事件にはあるのだろう。新聞報道やニュースでは、その一部しか見ることができないが、このようにまとめてレポートされるように書かれると、事件とその間の企業の関係がとてもよくわかるので、不思議だ。表向き「何も関係ない」と装っても、ちょっと調べれば犯人との裏取引があったり、企業側が犯人を全く知らないわけでもないことがすぐに分かる。自企業を守るために建前を述べて事件との無関係さ・潔白さとアピールすればするほど、その信憑性が乏しくなってくるのも当然だろう。それがグリコの一番の印象だ。いまだにグリコ本社としては、あの事件に対して非協力的の態度を取っている。協力的な態度がでればでるほど、企業の本質に直結する事項が世の中に露呈されるのを恐れているのだろう。つまり、企業が大きくなるためにはそれなりに汚い仕事やヤクザがらみのようなことと関係が深く付き合ってきたということが証明されたくないのが企業なのである。

でも、誰もがどこか汚いことをして成り上がってきたくらいは分かっているのだから、いまさら隠しても意味が無いものだと思うのは個人的な意見だろうか?それでも、関係各者に多くの取材を行い、意見を引き出し、考えを聞いて書面化した作者は偉いと思う。長い取材の時間と膨大な資料を整理した上での大作なのだろうと想像ができる。

昔懐かしい快事件という点では「三億円事件」と並び、ミステリーの領域から出て来れない本当の事件であることは間違いない。是非、そのへんのつまらない小説やミステリーに飽きたのであれば、この手の本を読んではらはらしてみたいとおもいませんかね?

闇に消えた怪人―グリコ・森永事件の真相
一橋 文哉(著)
新潮文庫
ISBN-13: 978-4101426211

Nena

先日、80年代ポップスのことを書いたのだが、これも書かざるをえないとおもったので、追記して記載することにした。80年代のポップスは、かなり有名な人達がデビューしたときでもあるし、有名な曲がたくさん出てきたこともあるし、また現在CMディレクターのひとたちが学生として聞いていたためか、いろいろなCMや番組のジングルやBGMでつかわれている曲もだいたいがこの80年代だったりする。そして、80年代のときだけ一世風靡したが、そのあと、ぷっつりと音信不通になったバンドもたくさんある。

どうしても書きたいなと思ったのは、ドイツのバンドであるネーナ(Nena)である。ドイツ語で全米チャートナンバーワンになったというのも快挙だとおもうが、そのあとの日本での人気も超すごかったのを記憶している。ドイツ語なんて、ヒトラーが話をしている言葉でしかそれまで聞いたことが無かっただけあって、音楽でそれも女性の声でドイツ語を聞いたというのはとても新鮮に聞こえたのだ。それも調子のいいメロディラインでの音楽性についても、なんとなく惹きつけられるものだった。

大ヒット曲「ロックバルーンは99(99 Luftballons)」という邦題が、なんじゃこれ?といまだと突っ込みたくなるものだが、英語題名「99 Red Ballons」というのも意味がわからない。ドイツ語の意味が全くわからないときに聞いていたときには、ふふーんとしか聞いていなかったが、あとでwikipediaなどで見てみると、この曲は反戦曲の代表になっており、今では色々な人がカバーをしているなんて書いている。カバー曲も聞いてみたい気がする。

ネーナがヒットしたあと、確かいくつのかのCMにもネーナの曲が使われていた気がする。その1つとして、アルバムにも入っていた「LEUCHTTURM」の怪しさ漂うメロディラインはもしかしたらティッシュペーパーのCMに使われていた気がする。調子のいいメロディとしては、「Rette Mich」というのもいい曲だ。邦題は確か「私を助けて!」なんていう意味不明を書いてあった気がするので、大学でドイツ語を第2外国語として専攻した際に、「助ける=retten」だと勝手に思っていたので、この曲には思い入れがある。(実際には、英語に似た「hilfen」が助けるの意味)他にも、「Nur Getraeumt」も実は何気にヒットチャートに載っていたりするのでビックりだ。

いま聞くと、どれもちょっと古めかしいという感じがするのだが、久しぶりに聴いたらなんとなく昔を懐かしむことが出来ると思うので、ベスト版でも買って聞いて欲しいと思う。最近自分の中でのiPodでは、ずっとこのネーナがかかりっぱなしである。単調だし、カラオケがあったら絶対歌っていそうな気がするが、なにせドイツ語なので口がついていかないだろう。

しかし、そんなネーナも既に50歳に近い年齢のようで、時の経つのは早いものだ。それにまだ現役でネーナはドイツで頑張っている。2005年にドイツでは「Liebe ist」で久々のスマッシュヒットを飛ばしたようで、またドイツではネーナ&80年代のときの音楽がブームとして興っているらしい。



ネーナ:グレイテスト・ヒッツ
1. 夢を見ただけ

2. ロックバルーンは99
3. 水平線が知っている

4. クエスチョンマーク

5. 未来へのスパークル

6. 満月と魔法

7. レッテ・ミッヒ(私をた・す・け・て)

8. ウーマン・オン・ファイアー

9. 奇跡

10. ベッドが好き

11. 海賊にさせて

12. 銀河の秘密

13. Tokyo

14. 一生分の一日

15. 愛を知らない

16. ムーンソング

17. 不思議の国へ

18. ボンゴ・ガール